『であること』と『すること』の本質的差異|哲学的思考を養う現代文の名評論

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高校の現代文の授業で「である」ことと「する」ことという評論に出会い、タイトルの時点で少し身構えてしまった、という方も多いのではないでしょうか。
丸山真男によるこの評論は、長く教科書教材として親しまれてきた一方で、抽象的な議論ゆえに「言いたいことは分かるようで分からない」と感じられることも少なくありません。

この記事では、評論の核心である「である」論理と「する」論理の対比をひとつずつ丁寧にたどりながら、そこから見えてくる近代社会の見方、そして日本の伝統文化を考えるうえでのヒントについてもご紹介します。

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評論「である」ことと「する」こととは何か

丸山真男という思想家

丸山真男は、昭和から平成にかけて活躍した日本を代表する政治学者・思想史研究者です。
東京大学で教鞭をとり、日本の政治思想や近代化のあり方について数多くの論考を残しました。

「である」ことと「する」ことは、そうした丸山の代表的な評論のひとつであり、岩波新書『日本の思想』に収められた文章として知られています。
平易な言葉づかいでありながら、近代社会の本質に切り込む内容の濃さから、長年にわたり高校国語の教材として採用されてきました。

「である」論理と「する」論理の基本構造

この評論の出発点は、ものごとの価値を測るふたつの異なる「ものさし」があるという指摘です。
ひとつは、ある人や物が「何であるか」という属性そのものに価値を見いだす「である」論理。
もうひとつは、実際に「何をするか」という行為や機能に価値を見いだす「する」論理です。

徳川時代に見る「である」社会

丸山は、江戸時代の身分制社会を「である」論理が支配する社会の典型として取り上げます。
武士の家に生まれれば武士であり、農民の家に生まれれば農民である、というように、生まれながらの身分がそのままその人の価値や役割を決めていました。
そこでは「何をしたか」よりも「何であるか」が優先され、社会の秩序はその属性の体系によって支えられていたのです。

近代の権利は行使してこそ意味をもつ

これに対して丸山が強調するのが、近代社会における「する」論理の重要性です。
たとえば基本的人権は、単に「国民である」というだけで自動的に守られるものではありません。
権利は、それを主張し、行使し続ける不断の努力があってはじめて実質的な意味を持つ、というのが丸山の指摘です。

評論の中では、権利の上にあぐらをかいて眠っている者は、その権利によって保護されないという趣旨の一節が印象的に語られます。
これは日本国憲法が国民の不断の努力による権利の保持を求めていることとも重なる考え方であり、権利とは「である」ものではなく「する」ことによって初めて生きたものになる、という近代社会の原理を端的に示しています。

「する」がいつしか「である」に変わる逆説

丸山の議論がさらに鋭いのは、近代社会が生み出した制度そのものが、時間の経過とともに「である」化していく逆説を指摘している点です。
本来は特定の目的を果たすために作られた「する」ための制度も、運用が長く続くうちに、その存在自体が当然視され、目的や機能が問い直されなくなっていきます。

組織や慣習が「昔からそうだから」という理由だけで維持されるようになったとき、それは本来の「する」論理を失い、新たな「である」論理へと姿を変えてしまっている、というわけです。
丸山は、こうした制度の硬直化を絶えず点検し、必要であれば作り直していく姿勢こそが、近代社会を健全に保つために欠かせないと論じています。

伝統工芸の世界に「である」価値を重ねて考える

この評論は近代社会の政治や制度を主な題材としていますが、日本の伝統文化に関心を持つ読者にとっても、示唆に富む視点を含んでいます。
伝統工芸の世界には、代々受け継がれてきた技法や様式そのものに宿る「である」的な価値、すなわちその技術が「伝統である」こと自体の重みが確かに存在します。

一方で、その伝統は職人が日々手を動かし、素材と向き合い、技を磨き続けるという「する」の営みによって初めて生きたものとして次の世代へつながっていきます。
「伝統工芸の担い手である」という立場に安住するのではなく、絶えず技術を試し、時代の暮らしに合わせて工夫を重ねる「する」姿勢があってこそ、伝統は形骸化を免れ、現代においても意味を持ち続けるのではないでしょうか。

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現代を生きる私たちがこの評論から学べること

「である」ことと「する」ことは、身分や肩書、あるいは組織や制度といった「すでにあるもの」に安住せず、それらが本来果たすべき機能を常に問い直し続けることの大切さを教えてくれます。
これは政治や社会制度に限らず、私たちが自分自身の役割や立場をどう捉えるかにも通じる視点です。

高校の教科書で読んだときには難解に感じられたこの評論も、伝統文化や自分自身の生き方に引き寄せて読み直してみると、案外身近な問いを投げかけていることに気づかされます。
「である」ことに満足せず、「する」ことを重ねていく姿勢を持ち続けたいものです。

近代文学
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