存在と行為――丸山真男の評論が映す日本職人の『道』の本質

備前焼
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伝統工芸の展示会や老舗の工房を訪れたとき、職人の淡々とした手仕事にどこか心を惹かれた経験はないでしょうか。

華やかな技巧そのものよりも、むしろその佇まいや構えに、言葉にしにくい重みを感じることがあるかもしれません。

そうした感覚の正体を考えるとき、思想史家・丸山真男が遺した「である」ことと「する」ことという評論の視点が、意外なほど鮮やかな補助線になります。

政治思想の分析として書かれたこの評論を、日本の職人が体現する『道』という営みに重ね合わせてみると、存在としての在り方(である)と、行為としての実践(する)という、一見対立する二つの原理が、職人の世界では分かちがたく結びついていることが見えてきます。

本稿では、丸山の議論の骨子を確認したうえで、それが陶芸や漆器、染織、刃物鍛冶といった伝統工芸の現場でどのように息づいているのかを、順を追って見ていきます。

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丸山真男が問うた「である」こと、「する」こと

丸山真男は、日本を代表する政治学者・思想史家のひとりです。

彼が著した「である」ことと「する」ことという評論は、価値の根拠を「〜である」という属性や身分に置く論理と、「〜する」という行為や機能に置く論理という、二つの異なる価値意識を対比的に論じたものだと言われています。

たとえば、ある身分やある家に生まれたこと自体に価値を見出す発想が前者であり、実際に何をなしたかという実績や働きに価値を見出す発想が後者にあたります。

丸山は、近代化とはこの「である」価値から「する」価値へと重心が移っていく過程だと捉える一方で、あらゆる場面を効率や機能だけで測ろうとする「する」論理の行き過ぎにも、注意深い目を向けていたとされています。

職人の世界に息づく「存在(である)」の論理

この二つの原理を日本の職人の世界に置き換えて考えてみると、興味深い対応関係が浮かび上がります。

陶芸や漆器の世界では、特定の窯や流派に連なる者であること、あるいは先代から名跡や技法を受け継いだ者であることが、しばしば大きな意味を持つと言われています。

これは「である」の論理そのものです。

血筋や師弟関係、屋号といった、本人の日々の行為とは別の次元にある「属性」が、職人としての立場を支えている面があるからです。

技を磨き続ける「行為(する)」の論理

けれども、ある家に生まれた、ある流派に属したというだけで、職人としての評価が定まるわけではありません。

むしろ日々の稽古や仕事を通じて技を磨き続け、実際によいものを作り続けるという「する」の論理こそが、職人の世界では厳しく問われます。

染織の世界であれ、刃物鍛冶の世界であれ、どれほど由緒ある家に生まれていても、日々手を動かし続けなければ技術は錆びついてしまうと言われています。

「である」ことに安住せず、絶えず「する」ことを積み重ねる姿勢が求められる点に、職人の道の厳しさがあるのかもしれません。

守破離という実践の型

この「する」の積み重ねには、ある程度共通した型があるとされています。

武道や茶道の稽古論に由来すると言われる「守破離」という考え方は、職人の技の習得過程を理解するうえでも参考になります。

  • 守 ―― 師の教えや流儀を、まず忠実に模倣し、体に覚え込ませる段階
  • 破 ―― 身につけた型をもとに、自分なりの工夫を試み始める段階
  • 離 ―― 型から離れ、独自の表現や技法を確立していく段階

守破離は単なる技術習得の順序というより、「である」立場(師から受け継いだ流儀)を土台にしながら、「する」実践(自らの工夫と鍛錬)を重ねていく往復運動そのものだと捉えることもできそうです。

『道』とは存在と行為の往復運動である

ここまで見てきたように、日本の職人が歩む『道』は、「である」ことだけでも、「する」ことだけでも成り立たないのではないでしょうか。

流派や家系という存在の土台があってこそ、その者の行為には重みが伴い、同時に、たゆまぬ実践という行為の積み重ねがあってこそ、存在としての立場も初めて意味を持つ、という関係です。

丸山が指摘したように、近代社会では「する」論理があらゆる領域に浸透し、実績や機能だけで物事の価値を測ろうとする傾向が強まりがちだと言われています。

しかし日本の伝統工芸の世界に目を向けると、実績を重ねる「する」の営みが、同時に流派や技法という「である」の蓄積を静かに更新し続けているという、もう一つの構図が見えてきます。

伝統工芸が教えてくれること

陶芸家が土と向き合う姿、漆芸の職人が幾重にも漆を塗り重ねる作業、染織家が糸の一本一本に手を通す工程――こうした光景に共通しているのは、単なる作業の反復ではなく、受け継いだ存在としての自覚を、行為によって日々確かめ直している姿だと言えるかもしれません。

刃物鍛冶の世界でも同様に、火と鉄に向き合う繰り返しの中で、技法という「である」の蓄積が、絶えず「する」実践によって鍛え直されていくと考えられます。

現代に生きる私たちにとっての「道」

こうした存在と行為の往復運動という視点は、職人の世界に限った話ではないのかもしれません。

丸山の評論が半世紀以上を経てなお読み継がれているのも、肩書きや立場に安住せず、日々の実践によってその立場にふさわしい自分であり続けようとする姿勢が、時代を問わず求められているからではないでしょうか。

伝統工芸の展示や工房を訪れる際、作品の背後にある「である」の蓄積と「する」の積み重ねという二つの視点を意識してみると、ひとつの器や一振りの刃物から見えてくる景色が、これまでとは少し違ったものになるかもしれません。

文化
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