400年続いた江戸時代に終止符をうち、明治という新しい時代を切り開く。
そんな激動の幕末時代を生きたのが、高杉晋作です。
高杉が仕えたのは、反幕府勢力の中心的存在であった長州藩(現在の山口県萩市)。
長州藩は西洋列強や幕府との戦いで何度も危機的状況を迎えますが、高杉の奇抜な発想と行動力でピンチを乗り越え、時代を動かしていきました。
今回は、29年という短い生涯でありながら数多くの業績を残し、明治維新の立役者となった高杉晋作の軌跡をまとめました。
1.高杉晋作の誕生
高杉は天保10年(1839年)8月20日、長州藩の上級武士である父、小忠太と母ミチの長男として生まれました。
屋敷は萩城下の菊屋横丁と呼ばれる一角にありましたが、一部現存する屋敷は現在でも見ることができます。
ちなみに高杉家のすぐ近くに桂小五郎(木戸孝允)の屋敷もあり、長州藩の人材の豊かさが垣間見えます。
高杉は幼い頃から負けん気が強く、次のようなエピソードが語り継がれています。
ある年の正月、遊んでいた自分の凧を、通りがかりの武士が踏んで壊してしまいました。
そのまま行こうとする武士に高杉は立ち向かい、大の大人に土下座までさせたそうです。
また、近所の円政寺に飾ってある大きな赤い天狗のお面を他の子供たちが怖がる中、晋作は好んで見に行ったというエピソードも残されています。
2.松下村塾での出会い
14歳になった高杉は、藩校である明倫館に入りました。
しかし明倫館での決まりきった授業に魅力を感じなかった高杉は、落第を繰り返します。
そして19歳の時、高杉に転機が訪れます。
吉田松陰の私塾、「松下村塾」へ入ったのです。
松陰は若くして長州きっての秀才といわれた思想家で、黒船来航の際には密航を企て、獄に入れられています。
思想だけでなく、実行を重んじる松陰に、晋作は惹かれていきました。
松下村塾は、身分を問わず本人の意思さえあれば誰でも入ることができました。
松陰は一人ひとりが持つ才能を伸ばす方針を取り、只教えるのではなく積極的な議論を促します。
このような教育から、地元の小さな私塾であったにも関わらず、明治維新の後に初代総理大臣となる伊藤博文や、山県有朋、木戸孝允等を始め様々な優秀な人材が育ちました。
晋作の性格を見抜いた松陰は、一つ年上である久坂玄瑞と競わせることで、能力を引き出していきます。
やがて高杉と久坂は塾生の「竜虎」や「双璧」と称されるようになるほどに成長していきました。
20歳の時、晋作は江戸へ遊学に行きます。
松陰とは手紙でやり取りしており、ある時晋作は「男の死に場所というのはどこか」と質問を投げかけます。
すると松陰は「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」と返しました。
この松陰の死生観は、後年まで晋作に大きな影響を与えました。
安政の大獄で捕らえられていた松陰が処刑されたのは、1年程の遊学を終え、晋作が江戸を離れた10日後でした。
3.上海への渡航
萩に戻った晋作は、両親の勧めもあり「萩城下一の美人」と称されていたマサと結婚します。
しかしその後すぐに、江戸への航海実習、剣術修行の試撃行(北関東、信州、北陸への旅)に出てしまいます。
この旅の中で様々な人物に会った晋作は、更に勉学に力を入れます。
松陰が処刑され、晋作の胸にあったのは、外国視察。
それは松陰が果たすことの出来なかったものでした。
よろづの国を 見んとぞおもふ
その想いが実現したのは文久2年、晋作が24歳の時でした。
高杉は藩の代表として海外視察を命じられたのです。
初めて見た海外である上海は、晋作にとって衝撃的なものでした。
西洋人にこき使われる中国人を見て、「上海は英仏の属地となっている」と感想を残しています。
アメリカの圧力で開国したばかりの日本も、いずれ同じ道を辿ってしまう。
晋作の中に危機感が強く生まれました。
4.奇兵隊
帰国した晋作は、幕府打倒の実現に力を入れていきました。
同士を募り幕府打倒の計画を練っていた高杉に、藩は大胆な行動を控えるよう注意を促します。
藩の弱腰な姿勢に憤った高杉は、10年の暇を願い出ました。
そして文久2年の12月、幕府が建設中だったイギリス公使館を、伊藤博文や井上馨ら仲間と共に焼き討ちしてしまいます。
しかし江戸庶民の焼き討ちへの賛同が強く、幕府は深く犯人の追求をしませんでした。
文久3年5月10日、開国反対だった長州藩は、沿岸を通る外国船に砲撃を行います。
一ヶ月後に報復に訪れた外国船は、近代的な兵器を備えていた為に、長州藩の武士達はまともに戦うこともできませんでした。
この力の差を目の当たりにした長州藩は、海外視察の経験もある高杉を呼び出しました。
意見を求められた高杉は、こう答えます。
奇兵とは、正規の兵ではなく奇襲攻撃を行う兵という意味でした。
創立にあたっては、武士、町民、農民などの身分を問わずに本人の能力があれば入隊する事が出来ると定めました。
直ちに隊員を募集すると、4日間で60人程が集まり、奇兵隊が発足します。
画期的なのは、身分を問わないのは勿論、徴兵ではなく有志を募った点でした。
これが最大の特徴であり、強みにもなったのです。
高杉が創った唄があります。
添うて嬉しい奇兵隊
西洋式の戦略と兵器を用いた奇兵隊は、下関の防御を命じられます。
また、奇兵隊に続いて藩内には次々に民衆の軍隊が結成されました。(相撲取りの力士隊、商人の朝市隊、神主の神威隊、漁師の遊撃隊など)
諸隊の数は200、兵力は2000人に達しました。
ところが、民衆が武器を持つことを好まない武士達との間で対立が起き、奇兵隊士が武士を斬りつける事件が起こりました。
高杉は責任を取り、奇兵隊の総督を解任。
その後軍事行動の方針で藩士と対立した高杉は脱藩し、その罪によって牢に入れられます。
この間、京都で長州藩士が幕府の命を受けた新選組に殺される事件が起こります。
池田屋事件です。
これを受け、長州軍は京都に進攻するも、幕府方についたの薩摩軍と会津軍に破れてしまいます。
晋作の盟友、久坂玄瑞もこの時戦死。その知らせを聞いた晋作は悔しさに打ちひしがれました。
幕府に立ち向かったとして、長州藩を武力で制圧する命令が出されます。
いわゆる第一次長州征伐で、全国の大名に動員が命令されました。
それだけでなく、長州藩を更に危機が襲います。
欧米列強の艦隊が来襲し、下関の砲台が占領されたのです。
この危機的状況に、藩が望みを託したのが高杉でした。
藩主の命により4ヶ月に及ぶ幽閉を解かれ、外国艦隊との停戦交渉を任されたのです。
交渉の相手は、イギリス提督。
直垂(ひたたれ)に烏帽子(えぼし)といった格好で現れた高杉は、終始相手を圧倒します。
相手が提示した停戦条件は、300万ドルもの賠償金の支払い。
当時の日本円で900億円もの大金でした。
高杉はこれを拒否します。
この争いの責任はそもそも幕府にあるのだから、請求は幕府にしろと言い放ちます。
これに対しイギリス提督は攻撃の再開をほのめかしますが、
「まだ長州には命を惜しまぬ人間がたくさんいる」
と屈しません。
結局、賠償金の請求は幕府に行われ、停戦となり、外国艦隊の脅威を免れました。
この時通訳をしていたイギリス人は後に、「高杉は魔王のように傲然としていた」と振り返っています。
しかしその頃、長州征伐の進軍が始まっていました。
長州軍は4000人に対し、幕府軍は15万。
普通に戦っても勝ち目はなく、この頃多数を占めていた藩内の保守派は、争いを避ける為に高杉らの追放を図ります。
命を狙われた高杉は、九州の福岡に身を隠しました。
幕府軍に囲まれた長州藩は、幕府の要求を受け入れ、家老3人の切腹を行います。
更に軍の参謀4人も処刑されてしまいました。