この知らせを福岡で聞いた高杉は憤ります。
このままでは長州藩は潰れ、幕府の力はより強大になる。
高杉は、長州へ戻ります。
奇兵隊本体の駐在所を訪ね決起を促しますが、奇兵隊総督の赤禰武人は「無謀である」と拒否します。
例え一人でもやってみせると、力士隊などの諸隊を廻り、決起を呼びかけていきます。
この時高杉が即興で創った唄があります。
国を思う気持ちがあるなら、今集まれという想いが込められていました。
そして決起当日。
功山寺に最初に集まったのは、松下村塾の後輩伊藤博文が率いる力士隊でした。
続いて猟師らの遊撃隊も集まりましたが、総勢で80人程しか集まりません。
しかし、晋作にとっては十分な人数でした。
数が少なくても、志を持つものが集まれば、時代を動かす力になれる。
「これよりは長州男児の腕前お目にかける」
下関の役所を襲撃した晋作達は、ここを拠点として、藩内に決起を促す檄文を送りました。
すると次第に協力者が増え、奇兵隊士も加わっていきました。
最終的に3000人にも膨れ上がった軍隊を率い、萩へ進軍を開始します。
西洋式の装備と戦略により、保守派の送った軍を打ち破ると、これを機に長州藩の保守派は一掃され、再び幕府に対して立ち上がることになりました。
大勝利を収めた高杉でしたが、藩の要職に就く事はせず、イギリスへの留学を志して長崎へ向かいます。
「人は艱難はともにできるが富貴は共にできぬ」
困難は共に出来るが、富や名誉は分かち合うことが出来ないと言い残しています。
ところが、長州藩の動向を知った幕府は、第二次長州征伐を発令。
大型の軍艦4隻を長州へ送り込みます。
これを受け長州藩は再び高杉を呼び戻します。
留学を中止し、長崎から戻った晋作は、小さな船1隻で幕府軍に奇襲をかけます。
この戦略に混乱した幕府軍は総崩れとなり、再び大勝利を収めました。
この勝利を機に、3000程だった長州軍は幕府軍を次々を打ち破っていきます。
いよいよ幕府打倒が実現する直前、高杉は病(肺結核)に倒れてしまいます。
死の直前、「ここまでやったのだから、あとはしっかりやってくれ」という言葉と次の読みかけの辞世の句を残し、この世を去りました。
明治維新の目前、4月14日、29歳の時でした。
その後、大政奉還が行われ、新政府が誕生。
明治という新しい時代に入って行ったのです。
東行庵
晋作は死後、現在の下関市吉田町に埋葬されました。
吉田といえば、奇兵隊の本陣が置かれていた場所。
これは、晋作が遺言として残しておいた本人の希望でもありました。
この場所が現在の東行庵で、今では梅の花やハナショウブの名所としても知られ、多くの高杉晋作ファンが訪れています。
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