陰影礼賛(いんえいらいさん)といえば、谷崎潤一郎が書いた随想評論です。
高校現代文の教科書にも掲載されるほど、日本を代表する名文の一つとされています。
今回は、そんな谷崎潤一郎が書いた「陰影礼賛(いんえいらいさん)」について解説していきたいと思います。
陰影礼賛とは
陰影礼賛は谷崎潤一郎が雑誌「経済往来」で1933年(昭和8年)12月号から連載した随想評論です。
日本の伝統文化には”暗がりの中に美を求める”美意識があるとして、衣食住から芸能・美人に至るまで様々な角度から論じています。
この陰影礼賛を発表した頃、谷崎は関西に移住しており、作品の中で上方文化に対する再認識と、古典回帰を示しています。
谷崎潤一郎について
谷崎潤一郎は明治19年7月24日、現在の東京都中央区の日本橋に生まれました。
長男は生後3日で亡くなっていた為、戸籍上は潤一郎が長男として兄妹の多い家庭で育ちます。
小学校に入学した頃までは裕福な家庭環境でしたが、父の商売不振もあり徐々に家計が苦しくなっていきます。
そんな谷崎が文学に触れたのもこの頃で、担任の稲葉先生に才能を認められて文学の道を志します。
そして友人らと「学生倶楽部」という回覧雑誌を立ち上げ、谷崎も「学生の夢」や「五月雨」という小品を書いています。
その後中学で秀才ぶりを発揮し、第一高等学校英法科、東京帝国大学国文科へ進んでいきました。
耽美派を代表する作家
作家となった谷崎は、昭和35年にその生涯を終えるまで、様々な作品を残しました。
その華麗な文体から耽美派を代表する作家として、多くの名作を書いています。
「春琴抄」や「痴人の愛」など、女性を崇拝する官能美を描き、その崇拝ぶりは悪魔主義とも呼ばれていました。
関連記事:谷崎潤一郎の生涯とおすすめ作品・年表|日本の大文豪・作家
陰影礼賛の原文
谷崎潤一郎の陰影礼賛の全文は、著作権が切れている事から青空文庫でも読む事が出来ます。
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ここでは、陰影礼賛の中でも有名な章段をご紹介していきます。
暗闇の中で感じる漆器の美しさ
京都に「わらんじや」と云う有名な料理屋があって、ここの家では近頃まで客間に電燈をともさず、古風な燭台を使うのが名物になっていたが、ことしの春、久しぶりで行ってみると、いつの間にか行燈式の電燈を使うようになっている。
いつからこうしたのかと聞くと、去年からこれにいたしました。蝋燭の灯ではあまり暗すぎると仰っしゃるお客様が多いものでござりますから、拠んどころなくこう云う風に致しましたが、やはり昔のまゝの方がよいと仰っしゃるお方には、燭台を持って参りますと云う。
で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。
「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。
が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。
そしてわれわれの祖先がうるしと云う塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである。
友人サバルワル君の話に、印度では現在でも食器に陶器を使うことを卑しみ、多くは塗り物を用いると云う。
われわれはその反対に、茶事とか、儀式とかの場合でなければ、膳と吸い物椀の外は殆ど陶器ばかりを用い、漆器と云うと、野暮くさい、雅味のないものにされてしまっているが、それは一つには、採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないであろうか。
事実、「闇」を条件に入れなければ、漆器の美しさは考えられないと云っていゝ。
今日では白漆と云うようなものも出来たけれども、昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもののように思える。
派手な蒔絵などを施したピカピカ光る蝋塗りの手箱とか、文台とか、棚とかを見ると、いかにもケバケバしくて落ち着きがなく、俗悪にさえ思えることがあるけれども、もしそれらの器物を取り囲む空白を真っ黒な闇で塗り潰し、太陽や電燈の光線に代えるに一点の燈明か蝋燭のあかりにして見給え、忽ちそのケバケバしいものが底深く沈んで、渋い、重々しいものになるであろう。
古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火(ともしび)を反射する加減を考慮したものと察せられる。
つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ餘情を催すのである。
そして、あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおりおり風のおとずれのあることを教えて、そゞろに人を瞑想に誘い込む。
もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。
まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちら/\と伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。
けだし食器としては陶器も悪くないけれども、陶器には漆器のような陰翳がなく、深みがない。
陶器は手に触れると重く冷たく、しかも熱を伝えることが早いので熱い物を盛るのに不便であり、その上カチカチと云う音がするが、漆器は手ざわりが軽く、柔かで、耳につく程の音を立てない。
私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたたかい温味とを何よりも好む。
それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではああは行かない。
第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。
漆器の椀のいいことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱(よど)んでいるのを眺めた瞬間の気持である。
人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつつあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣む前にぼんやり味わいを豫覚する。
その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。
それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。
東洋人の陰影の美
いったいこう云う風に暗がりの中に美を求める傾向が、東洋人にのみ強いのは何故であろうか。
西洋にも電気や瓦斯や石油のなかった時代があったのであろうが、寡聞な私は、彼等に蔭を喜ぶ性癖があることを知らない。
昔から日本のお化けは脚がないが、西洋のお化けは脚がある代りに全身が透きとおっていると云う。
そんな些細な一事でも分るように、われわれの空想には常に漆黒の闇があるが、彼等は幽霊をさえガラスのように明るくする。
その他日用のあらゆる工藝品において、われわれの好む色が闇の堆積したものなら、彼等の好むのは太陽光線の重なり合った色である。
銀器や銅器でも、われらは錆の生ずるのを愛するが、彼等はそう云うものを不潔であり非衛生的であるとして、ピカピカに研き立てる。
部屋の中もなるべく隈を作らないように、天井や周囲の壁を白っぽくする。庭を造るにも我等が木深い植え込みを設ければ、彼等は平らな芝生をひろげる。
かくの如き嗜好の相違は何に依って生じたのであろうか。
案ずるにわれわれ東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自ずからなる美を発見する。
今時の若者は
この間何かの雑誌か新聞でイギリスのお婆さんたちが愚痴をこぼしている記事を読んだら、自分たちが若い時分には年寄りを大切にして労わってやったのに、今の娘たちは一向われわれを構ってくれない、老人と云うと薄汚いもののように思って傍へも寄りつかない、昔と今とは若い者の気風が大変違ったと歎いているので、何処の国でも老人は同じようなことを云うものだと感心したが、人間は年を取るに従い、何事に依らず今よりは昔の方がよかったと思い込むものであるらしい。
で、百年前の老人は二百年前の時代を慕い、二百年前の老人は三百年前の時代を慕い、いつの時代にも現状に満足することはない訳だが、別して最近は文化の歩みが急激である上に、我が国はまた特殊な事情があるので、維新以来の変遷はそれ以前の三百年五百年にも当るであろう。
などという私が、やはり老人の口真似をする年配になったのがおかしいが、しかし現代の文化設備が専ら若い者に媚びてだんだん老人に不親切な時代を作りつつあることは確かなように思われる。
陰影礼賛でよく出るテスト問題
谷崎潤一郎は高校現代文の教科書にも掲載されているので、下記の様なテスト問題が出題されます。
○問題:「電灯をともさず、古風な燭台を使う」ことで得られる効果は何か。
答え:日本の漆器の美しさは、そういうぼんやりとした薄明かりの中に置いてこそ発揮される。
○問題作者が考える陶器と漆器の違いは、どういうものか。
答え:陶器→陰影がなく、深みがない。手に触れると重く冷たい。熱を伝えるのが早いので熱いものを盛るのに不便。 漆器→手触りが軽く、柔らかで、耳につく音をたてない。汁物碗では手のひらが受ける汁の重みと生あたたかい温味を感じる。
○問題:「漆器」の肌はどのように形容されているか。
答え:幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生れ出たもの。
○問題:「闇」と調和する食べ物として挙げられているものは何か。
答え:羊羹、赤味噌の汁、醤油、白味噌、豆腐、蒲鉾、とろろ汁、白身の刺身、飯。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は谷崎潤一郎が書いた随想評論である陰影礼賛(いんえいらいさん)の原文と解説・テスト対策についてご紹介しました。
高校現代文の教科書にも掲載されるほど、日本を代表する名文の一つとされていますので、是非深く理解して作品を楽しんで下さいね。
その他については下記の関連記事をご覧下さい。