伊能忠敬といえば、日本各地を歩いて測量、17年かけて日本の地図を作り上げた人として有名ですよね。
17年と言っても、決して若い頃からの17年ではありません。
何と55歳を過ぎてからの17年なのです。
2018年は伊能忠敬の没後200年の節目という事で、その功績に再び脚光が集まっています。
55歳から72歳までの間に日本全土の測量、そして日本地図を作るという大きな偉業をやり遂げた伊能忠敬。
その人生に迫ります。
1.伊能忠敬の生い立ち
伊能忠敬は1745年1月11日に現在の千葉県山武郡九十九里町~当時の上総国山辺郡小関村の名主「小関五郎左衛門家」に生まれました。
母親が6歳の時に亡くなり、小関家は母親の弟(忠敬にとっては叔父)が継ぐことになり、婿養子だった父親は忠敬の兄・姉を連れて実家に戻ったものの、忠敬はそのまま祖父母の家に残りました。
1762年、香取市佐原~当時の下総国香取郡佐原村の酒造家・伊能三郎右衛門家の婿養子となり、はじめは源六と名乗り、その後三郎右衛門とし、伊能三郎右衛門忠敬と称するようになりました。
伊能家は酒造り、米、薪、燃料等などの取引きを行なっていたものの、その商売は上手くいっておらず、忠敬の才覚で盛り返したと言われています。
忠敬は飢饉の時も困難に直面した人々に手を差し伸べ、この地域では有名な名主として知れ渡るようになりました。
忠敬は49歳の時仕事を長男に譲り、単身江戸へ出て天文・暦学の勉強を始めるようになります。
この時に忠敬が弟子入りした師匠は、当時30歳の高橋至時。
20歳近くも年下の至時から様々なことを学んだ忠敬は、地球の大きさを求めようとするプロセスの中で、日本の正確な地図を描くことが必要という結論に辿り着いたのです。
2.歩幅で測量?忠敬が行なった測量とは…
気になるのは「当時、どのような方法で測量していたのか?」ということですよね。
忠敬は55歳(1800年)の時に第一次測量のため、蝦夷地へ向かいました。
この時一緒だったのは息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人、それに馬2頭でした。
この時の測量は一定の歩幅(70cm)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法でした。
気が遠くなるようなやり方ですが、それでも毎日40kmを移動したと言うのですから、その脚力にも驚かされます。
蝦夷地滞在は117日間にも及び、帰宅後は測量データをもとに3週間かけて地図を完成させたと言われています。
翌年1801年には第二次測量がスタート。
伊豆から太平洋側北端にある尻屋崎までの東日本太平洋側の測量です。
今回は蝦夷地で用いた「歩測」による測量ではなく、一間(約180cm)ごとに印を付けた縄(間縄=けんなわ)を使う方法に変更。
楽になったかと思いきや、海岸線は複雑に入り組んだ地形が多かったり、時には断崖絶壁に縄を張っていく測量になったりと、その苦労は尽きなかったようです。
この第二次測量に要した日数は230日間。
8ヶ月近い期間、様々な困難と向き合いながら測量を行なうことは、精神的にも肉体的にも相当過酷であったと考えられます。
忠敬はここまでの測量から、子午線一度の距離を28.2里と導き出すことに成功したと言われています。
3.歩いた距離は地球1周分!? 伊能忠敬の過酷な測量
忠敬は最終的に第十次測量までを成し遂げます。
回数 | 年代 | 場所 | 期間 |
---|---|---|---|
第一次測量 | 1800年 | 蝦夷地 | 117日間 |
第二次測量 | 1801年 | 伊豆~東日本太平洋側 | 230日間 |
第三次測量 | 1802年 | 東北日本海側 | 132日間 |
第四次測量 | 1803年 | 東海・北陸地方 | 219日間 |
第五次測量 | 1805年 | 近畿・中国地方 | 1年9ヶ月間 |
第六次測量 | 1808年 | 四国 | 約1年間 |
第七次測量 | 1809年 | 九州前半 | 1年9ヶ月間 |
第八次測量 | 1811年 | 九州後半 | 913日間 |
第九次測量 | 1815年 | 伊豆諸島 | 約1年間 |
第十次測量 | 1815年 | 江戸 | 約半月間 |
(第九次測量と第十次測量は並行して行なわれた)
東日本の海岸線測量が完結した第四次測量の後、忠敬は当初の目的であった地球の大きさを求める計算を始め、その結果約4万キロという数値に辿り着きました。
忠敬の師である高橋至時の持つオランダの天文学書の数値と照らし合わせ、両方が一致することを確認し、2人で大喜びしたそうです。
第十次測量が終了するまでの忠敬が歩いた距離は4万キロとされ、それこそ地球1周分の距離を歩いたことになります。
4.忠敬が作った初めての日本地図~苦難と過酷を乗り越えて
今の測量方法とは比べものにならないほど、非常に過酷な体験を乗り越えながら忠敬が行なった測量。
伊能忠敬の名前は「日本地図を初めて作った人」として知られているものの、それが55歳を過ぎてから始められたこと、たくさんの苦難に見舞われながらの測量だったことなどはあまり知られていません。
17年に及ぶ年月を経て作られた日本地図。
伊能忠敬の姿に思いを馳せながら、この国の地図をもう一度じっくり眺めてみませんか。