横浜芝山漆器・宮﨑輝生さんインタビュー|伝統を繋ぐ人々

横浜芝山漆器・宮﨑輝生さんの写真1
横浜芝山漆器は横浜開港当時に輸出品として盛んに制作された工芸品で、最盛期には数百人もの職人がいたといいます。
それが現在では芝山漆器を専門に作る”芝山師”は宮﨑輝生さんただ一人となっています。

今回はその宮﨑さんにお話を伺ってきました。

【プロフィール】
漆器工芸師/宮﨑輝生(みやざきてるお)
昭和11年(1936年)生まれ
神奈川県横浜市出身
横浜マイスター
平成15年 第7回日本象牙工芸展 経済産業省製造産業局長賞受賞
平成15年 第15回日本象牙彫刻記念展根付の部 奨励賞受賞
平成22年 横浜文化賞受賞
平成22年 ゴールデン・ドラゴン受賞(キンゼイ国際芸術財団)
令和元年 神奈川文化賞受賞

横浜芝山漆器とは

横浜芝山漆器・宮﨑輝生さんの写真2
芝山漆器・芝山細工は安永年間に遡る工芸品で、主に海外用の輸出工芸品として栄えてきました。
誕生は現在の千葉県山武郡芝山町(下総国芝山)でしたが、輸出に便利な横浜港近くに職人が集まるようになり、横浜芝山漆器と呼ばれるようになります。

三代目として技術を受け継ぐ

宮﨑さんが生まれたのは1936年。
祖父の代から芝山漆器職人という家に誕生しました。

横浜芝山漆器は分業制で作られており、宮﨑さんのお父さんは彫り上がった模様を木地に嵌め込む”彫込”を担当していたそうです。

幼い頃から父の作業場を覗いていた宮﨑さんに、職人たちは色々と仕事について教えてくれました。
そのような環境で育った宮﨑さんは、中学卒業と共に職人の道へ入ります。

この頃は注文が多く、とても家族だけでは間に合わないので、手伝ってくれる人を必死に探したといいます。
横浜の関内には外国の商社もあり、船の出港に間に合わす為に宮﨑さん宅へ催促に来る程でした。

注文の減少

横浜芝山漆器・宮﨑輝生さんの写真3
その後、徐々に注文は減っていき、生活していくのも厳しい状況になります。
数百人いた職人もどんどん居なくなり、横浜芝山漆器も値崩れしてしまいました。

そんな時に宮﨑さんは骨董屋の紹介で、漆器の修理の仕事を始めます。
最初は上手く出来ずに大変でしたが、修理技術も習得。
明治期の高度な技術で作られた漆器を修理する傍ら、新作作りに励むという日々を送ります。

多い時は年間500万円程修理の仕事がありましたが、仲介してくれていた方が亡くなった事もあり、修理の仕事も受けられなくなってしまいます。

職人仕事の難しさ

横浜芝山漆器・宮﨑輝生さんの写真4
80歳を越える宮﨑さん。
今は百貨店の催事に年2回程作品を出品するのが主な仕事になっています。

宮﨑さんの作品は出品すれば必ず完売となっていますが、それでも制作時間や材料費を考えると厳しい状況だといいます。

そして宮﨑さんは現代の職人の関門として、1番に技術習得の関門、次に販売相手を見つける関門、そしてかつての商社や問屋のように面倒見る人がいないという関門があるといいます。

後継者の育成

横浜芝山漆器・宮﨑輝生さんの写真5
宮﨑さんは過去に1度、雑誌上で後継者を募集した事があります。
それは1998年、通販生活の「第5回跡継ぎ募集 あとはオメェにまかせたぜ」という特集で、これをみた読者25人から応募がありました。

その中から女性2名に技術を教える事になり、宮﨑さんの元に月2,3回程通いでやってくるようになります。
その後教え子たちは独立。
他にも横浜芝山漆器研究会という有志の集まりに対して定期的に講習を行っていますが、元々分業だった横浜芝山漆器を1人で作れるようになるまでには膨大な時間と努力を用する為、横浜芝山漆器の後継者問題は難しい状況であることに変わりはありません。

横浜芝山漆器を次代に繋ぐ

横浜市では横浜芝山漆器の技術を繋ぐべく、VR(仮想現実)で芝山漆器の制作工程を体験できる企画を実施するなど記録・周知に努めています。

かつては他の地域に技術を開示する事に難色を示す職人もいたそうですが、宮﨑さんは「教えて欲しいと言われれば何でも教える」と今回の取材にも丁寧に答えて下さいました。

最後に、Youtubeで公開されている、宮﨑さんの作業風景を撮影したお勧めの動画をご紹介します。(立命館大学アートリサーチセンター作成)

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