吉田松陰の生涯と思想|松下村塾を主宰し、数々の志士を輩出した教育者

吉田松陰といえば、幕末の時代に長州藩で松下村塾を主宰し、数々の志士達を育て上げた事で知られています。
自身も自らの危険を顧みず、日本の為にその生涯を捧げました。

今回はそんな吉田松陰の人生と思想についてご紹介します。

吉田松陰の誕生

吉田松陰は1830年9月20日、長州藩士の子として現在の山口県萩市に生まれました。

杉百合之助の次男として誕生した松陰でしたが、6歳の時に叔父の玉木文之進のもとに養子に出されます。
叔父は兵学者だった為、松陰もその家を継ぐ事になったのです。

叔父に論語や孟子といった中国の古典を学んだ松陰は11歳の時、長州藩主の前で兵法の講義を行い賞賛を受けます。
早くから優秀さを発揮していた松陰は19歳の若さで兵法の師範として身を立てることになりました。

黒船来航

20歳を過ぎると、松陰は自身の見聞を広める為に日本全国を巡る旅に出ます。
その旅の途中、運命を変える事件に遭遇しました。

嘉永6年6月3日、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀に現れたのです。
いわゆる「黒船の来航」でした。

ペリーは強大な武力を誇示し、幕府に開国を要求します。
幕府の役人は狼狽し、日本国内は大騒ぎとなりました。

松陰もその知らせを聞くや否や、黒船を一目見ようと駆けつけます。
そこにあったのは見たこともない巨大な船。

これまで学んでいた兵法ではこんな相手に太刀打ち出来ないと悟った松陰は、今後は西洋のことを知って西洋の兵学を学ばなくてはならないと決意を固めます。

この松陰の考え方に賛同した人物がいました。
長州藩出身で、当時23歳の若者だった金子重之助です。
そして重之助は松陰と行動を共にするようになりました。

密航計画

松陰と重之助は、黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうと考えます。

しかし、当時は幕府の許可なく外国へ渡航することは禁じられていました。
もし密航などすれば重罪に問われますが、2人はひるむことなく黒船が停泊する下田に向かいます。

よる遅く、松陰と重之助は小舟に乗って沖の黒船を目指しました。
櫓を船に固定する金具が外れるなどの苦難にあいながら、なんとか黒船にたどり着いた2人。

船にあがってアメリカ人船員と筆談を試みますが、相手が書いた文字を読むことが出来ません。
別の船を指差されたのでまた小舟で向かうと、そこには通訳が居ました。

2人はアメリカ行きを懇願しますが、申し出はあえなく拒否されます。

下田に戻された松陰と重之助は、密航を企てた罪に問われました。
そして半年後、2人は長州藩内の牢獄に入れられてしまいます。

獄中生活

松陰が入ったのは野山獄という牢獄。
ここは武士階級の牢獄で、1人1室が与えられていました。

一方、農民出身の重之助が入ったのは岩倉獄
こちらは雑居房で、衛生状態も良くありませんでした。

体が弱かった重之助は、この岩倉獄の中で徐々に衰弱していきます。
松陰は長州藩に重之助の待遇改善を訴えますが、退けられました。

そして重之助はついに、獄中で25歳の若さで命を落とします。

この出来事にショックを受けた松陰は、こう書き残しています。

吾れ独り生を偸み
涙下ること雨の如し

同じ想いを持ち、同じ罪を犯したはずなのに身分の違いによってこんなに差が出てしまう。
松陰は獄中で苦悩します。

囚人たちとの交流

吉田松陰が入れられた野山獄には、12の独房がありました。
松陰は他の独房にいる囚人たちと知り合います。

獄中で48年も生活し、75歳になる大深虎之丞。
家族からも見放されて牢獄に押し込められた偏屈者の富永有隣。
何度も入出獄を繰り返している平川梅太郎。
元寺子屋の教師、吉村善作。
そしてただ一人の女性、高須久子。

高須久子の投獄理由は謎でしたが、近年の研究では武家の久子が身分を問わずに人々を屋敷に呼んで交流していたからだともいわれています。

囚人達と付き合う中で、松陰はそれぞれの囚人が得意な能力を持っていることを知りました。
そして松陰は、互いに得意なことを教え合うということを始めます。

富永有隣は書が得意だったので、松陰が頼み込んでみんなに教えて貰いました。
すると気難しい性格だった有隣も次第に心を開いていきます。

吉村善作は俳句を得意でした。
吉村を指導役として句会を開くなどしていた松陰は、こんな言葉を残しています。

人賢愚ありと雖も各々十二の才能なきはなし。
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん。

(人には能力の差はあっても、誰にも長所はあるものだ。
長所を伸ばしていけば立派な人間になれる。)

この考えは、後の松陰の生き方にも深く影響していきました。

松下村塾

松下村塾の画像|四季の美

松下村塾


安政2年12月、松陰は野山獄を出て萩の自宅で謹慎するように命じられます。

自宅に戻った松陰の元には若者が集まり、松陰は牢獄での経験を生かした教育を行うようになります。
多い時には1日に30人もの塾生が集まったと言われています。

松下村塾の門は身分を問わず誰にでも開け放たれ、出入りする時間などの制限もありませんでした。
武士も町人も、身分に関係なく様々な人間が集まり同じ部屋で学んでいきます。

松陰は一方的に教える、というよりも共に学んでいこうという姿勢で生徒と向き合っていきました。

松陰が掲げた松下村塾の合言葉は、「飛耳長目」
耳を飛ばして目を長くする、多くの情報を入手しそれに基づいて行動しなくてはならないという意味です。

その為講義だけでなく、共に話し合う討論会を重視しました。
今の日本には何が必要なのかを全員で考えていったのです。

松陰の言葉。

沈黙自ら護るは余甚だ之を醜む

黙っていてはいけない。
身分を超えた人と人との触れ合いぶつかり合いこそが最も大切な教育だと考えていたのです。

こうして、自由で個性を重んじる松下村塾の教育が始まりました。

久坂玄瑞と高杉晋作

松下村塾には後に大人物となる生徒が数多く通っていました。
後に総理大臣となる伊藤博文や、山県有朋も塾生でした。

その中でも特に松陰が高く評価していたのが、久坂玄瑞
玄瑞は身分は高くありませんでしたが、才能も気概も一流と評価し、松陰の代わりに講義する事もあるくらいでした。

その久坂玄瑞に誘われて松下村塾に入ったと言われるのが、当時19歳の高杉晋作です。

長州藩上級藩士の息子だった晋作は、明倫館という藩校に通っていました。
しかし型にはまることが嫌いな晋作にとって、明倫館の授業はつまらないものでした。

塾にやってきた頃の晋作は学問も真面目にやっておらず、頑固で意地っ張りという性格でした。
しかし松陰は、晋作を型にはめようとはせず、個性を尊重します。

晋作はいずれ大成する人物であるから、彼の頑固さを無理に摘み取ってしまってはならない。

そして松陰が行った方法は、晋作の前でわざと久坂玄瑞を褒めるというものでした。
晋作は自分にもそれくらいは出来ると発奮。
そこから猛烈に勉強を始め、急速に能力を高めていったのです。

日米修好通商条約

この頃の日本国内の世論は、アメリカとの関係をどうするか、という事で紛糾していました。

アメリカは日米修好通商条約を結ぼうと幕府に強硬に迫りますが、この条約が結ばれると外国人が国内で起こした事件で日本が捌けなくなるなど、日本にとって不利になるものでした。

松陰は、塾生たちにも日本はどう対応すべきか考えさせます。
高杉晋作は「今は外国の圧力に耐えて富国強兵につとめなければならない。西洋の知識と技術を導入し、人材を育成して国力をつけた上で外国と対等な関係を築くべき」とレポートにまとめます。

松陰はこの晋作の意見に驚き、褒め称えます。
そして松陰も「西洋歩兵論」いう論文を書きあげます。
西洋の歩兵制を採用し、身分に関係なく志があれば足軽や農民も募るべきだ、という内容でした。

戦うのは武士であり、農民や町民は武器をとってはならないと教えられていた当時では画期的な考え方でした。

この頃、江戸や京都では幕府や封建体制に異議を唱える思想家たちが次々と逮捕されていました。
いわゆる安政の大獄です。

松陰もこの動きを知り、このまま幕府に任せてはおけないという考えを強めていきます。
塾生たちにも倒幕の為に過激な行動を促しますが、あまりに急進的すぎると反対されます。

このような考えが長州藩にも伝わり、再び松陰は投獄されてしまいました。

再びの投獄

安政5年12月26日、再び萩の野山獄に投獄された松陰。
ここで松陰は、高須久子と再開します。

ついてきてくれない塾生たちに対して断絶状を送るなどしていた松陰でしたが、改めて高須久子の生き方に触れて思想も新たにします。

独りでやっていてはだめだ。
誰にでも能力はあるというのが、自分の教育の理想であったはずだ。
多くのものが集まれば、例え自分一人が倒れても志あるものが後を継いでくれるに違いない、と考えを新たにします。

草莽崛起

そして安政6年1859年4月7日、松陰はその思いを文章にしたためます。
それが「草莽崛起」として知られる文章です。

今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし 草莽崛起の人を望む外頼みなし

混乱する日本の中では、幕府も藩もあてにはならない。
今の日本を改革するには、身分に分け隔てなく志ある者が一人一人自覚を持って立ち上がらなくてはならない。

松陰は晋作あてに、以前塾生たちに怒ったことを悔いる手紙を書きます。
出獄したら塾生達と共に行動しよう、と考えを変えたのです。

しかし、松陰は幕府の命令で江戸に移される事になりました。

その事を知った久子は、餞別として手ぬぐいを渡します。

松陰は久子に歌を送りました。

箱根山 越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん

久子も俳句で答えます。

手のとはぬ 雲に樗の 咲く日かな
(あなたはついに手の届かぬところへ行ってしまうのですね)

松陰も俳句で

一声を いかで忘れん 郭公
(最後の一声をどうして忘れようか)

吉田松陰の最期

江戸にある幕府の評定所で、松陰の取り調べが始まりました。
厳しい尋問を受ける松陰。

塾生たちも松陰の身を案じ、江戸の長州藩邸に晋作らが集まり獄から助け出そうと計画します。

松陰は晋作に手紙を送ります。

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

(死んで朽ち果てない自信があれば死んでもよろしい。
生きていることが大きな仕事につながるのならば、どんな時でも生き続けなさい。)

そして安政6年10月27日、松陰は30歳の若さで刑死します。

留魂録

留魂録という、松陰の遺書が残されています。

私は三十歳。
四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。
それは単なるもみがらなのか、成熟した栗の実であるのかは私の知るところではない。
もし、同志の諸君の中に私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。

意志を受け継ぐ者

高杉晋作の銅像

功山寺敷地内の高杉晋作の銅像


文久3年6月、高杉晋作は新しい軍隊を作ります。
その名は、奇兵隊

奇兵隊は松陰の草莽崛起の考えを受け継ぎ、志さえあれば身分に関わらず誰でも入ることができました。

他にも松陰の考えを受け継いだ軍隊が次々に誕生していきます。
塾生の吉田稔麿の維新団や、一新組。
これらの軍隊が長州軍の主力となり、ついに幕府軍を打ち破ったのです。

松陰の死から9年後、元号は明治と改められました。
新政府には伊藤博文や山県有朋など、松下村塾の塾生たちが名を連ねて明治の新しい時代を築いていったのです。

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