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雨月物語の現代語訳あらすじ|上田秋成による怪異小説の解説

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江戸時代中期の読本、「雨月物語」。
上田秋成によって書かれた怪異小説9篇から成る作品です。

雨月物語を基にした小説や映画も作られるなど、高い人気を誇ります。
今回はそんな雨月物語についてご紹介したいと思います。

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雨月物語の構成

雨月物語は下記の5巻5冊、全9篇から成っています。

【巻之一】
白峯
菊花の約

【巻之二】
浅茅が宿
夢応の鯉魚

【巻之三】
仏法僧
吉備津の釜

【巻之四】
蛇性の婬

【巻之五】
青頭巾
貧福論

そして雨月物語には下記の序文も添えられています。

[雨月物語 序] 書き下し文

水滸伝を書いた羅漢中は三代に渡って口のきけない子供が生まれ、源氏物語を書いた紫式部は地獄に落ちた。
それは思うに架空の物語を書いて人々を惑わせた報いであろう。
さて、その文章を見るとそれぞれ普通とは違う珍しい趣向を凝らし、文の勢いは真に迫り、調子は低くあるいは高くなめらかで、読者の心を共鳴させる。
描かれている事実をはるか後の世の現在にも、鏡に映るようにありありと見せてくれるのである。私にも泰平の世のむだ話があって、口をついて出るままに吐き出してみれば、雉が鳴き、竜が戦うような奇怪な話である。自分でもでたらめなものだと思う。これを拾い読みする者も、当然これを信用するはずもない。
だから私の場合は人々を惑わせる罪もなく、唇や鼻が欠ける報いを受けることもない。明和五年晩春、雨が上がり月が朧にかすむ夜、書斎の窓のもとに編成して書肆に渡す。題して「雨月物語」という。
剪枝畸人記す。
(剪枝畸人は上田秋成のこと)

各話のあらすじ

この章では雨月物語の短編全9話のあらすじをご紹介します。

白峯

歌人の西行が、旧主である崇徳院の菩提を弔おうと白峯を訪れ、読経し歌を詠みました。

「松山の浪のけしきはかはらじを かたなく君はなりまさりけり」
(松山の潟の波は古歌のとおりに今も寄せては返しているのに、我が君は跡形もなく、もはや取り返しようもない)

すると、西行のことを呼ぶ声が聞こえます。
見てみると、人影がこちらを向いて立っていて、「松山の浪にながれてこし船の やがてむなしくなりにけるかな」と返歌してきました。

その歌から西行は、声の主が成仏せずに怨霊となった崇徳院であることに気づきます。
西行は崇徳院と対話をし、一首の歌を詠みました。

「よしや君昔の玉の床とても かからんのちは何にかはせん」
(以前は玉座にあって位人臣を極めたとはいえ、こうなってしまったあとでそれが一体なにになりましょう)

すると崇徳院の顔が穏やかになり、そのまま消えていきました。
崇徳院の墓は整えられて、御霊として崇め奉られるようになりました。

菊花の約

母と二人で暮らす儒学者の左門は、ある日行きずりの武士が病気で伏せているのを見つけ、看病してあげます。
話を聞くとこの武士は宗右衛門という軍学者で、故郷で主が討たれた事を聞いて急いで帰る途中との事でした。

看病の間に二人は仲良くなって兄弟の契りを結びます。
病気が回復した宗右衛門は、左門に「九月九日にまた戻ってくる」と言って故郷に帰ります。

しかし、約束の日になっても宗右衛門は中々現れません。
左門はそれでも待ち続け、夜が更けた頃に宗右衛門が現れました。

でも、どこか宗右衛門の様子がおかしい。
訳を聞いてみると、宗右衛門は故郷で軽薄な丹治という男の謀略によって監禁されてしまい、約束を果たすためには幽霊になって行くしかないと自死したとの事でした。
そして左門に別れを告げ、消えてしまいます。

左門は宗右衛門の仇を取る為に出雲へ旅立ちます。
見事丹治を斬り殺した左門。
兄弟の信義の厚さに打たれ、家来たちも左門を追いませんでした。

やはり軽薄な人間と関わるのはやめたほうが良いのです。

浅茅が宿

戦国時代の下総国に、働くのが嫌いな勝四郎と妻が暮らしていました。
元は裕福な家でしたが、勝四郎が働かない為にどんどん貧しくなっていきます。

そこで勝四郎は発奮。
家の財産を全て絹にかえて、妻に「秋には帰る」と言い残し商人と京に上ります。

妻は美しかったので言い寄ってくる男も居ましたが、これを断って夫の帰りを待ち続けます。
しかし夫は秋になっても帰ってきません。

勝四郎は京で絹を売って儲けたものの、帰る途中に山賊に襲われて財産を全て奪われてしまいます。
そして関東で戦乱が起き、途中の関所も人が通れない状態になっていると聞きます。
「きっと妻も生き残っていないだろう」と、勝四郎は京に7年程住みつきます。

京でも戦乱が起きるなどして、一度地元へ帰る事にした勝四郎。
ようやく辿り着くと、そこに待っていたのはひどくやつれた姿の妻でした。
妻は夫との再開を喜び、お互いに涙を流します。

お互いの事を語り、そのまま二人は眠りにつきました。
翌朝勝四郎が目覚めると、そこは廃屋でした。
横にいたはずの妻もおらず、やはり妻は死んでいたのだと気づきます。

周りを見てみると塚があり、そこに貼ってある一枚の紙に歌が書いてありました。

「さりともと思ふ心にはかられて 世にもけふまでいける命か」
(それでもいつかはお帰りになるだろうと騙し騙しに今日まで生きてきたものの)

妻の死について知っている人を探し、一人の老人にたどり着きます。
老人にこの地での戦乱のこと、妻がそれでも待ち続けていた事などを聞いて、勝四郎はまた涙を流します。
そして老人にこの土地に伝わる真間の手児女の伝説を聞き、勝四郎は歌を詠みます。

「いにしへの真間の手児女をかくばかり 恋てしあらん真間のてごなを」
(昔の人々も真間の手児女を、このように思い返していたのだろうか、この葛飾の真間の女を)

下総の国にたびたび出かける商人の語った話です。

夢応の鯉魚

近江国三井寺に、興義という有名な画僧がいました。
鯉の絵が好きで、夢の世界でも鯉と遊ぶほど。
そこで見た様子を描いた絵を「夢応の鯉魚」と名付けました。

しばらくして、興義は病を患って亡くなってしまいます。
しかしまだ体の胸のあたりが温かかったので、弟子たちは念の為そのまま置いておきました。
すると三日後、興義は生き返ります。

興義は起きるなり、「檀家の平の助の殿がいま宴会をしているはずだから、呼んできなさい」と言いつけます。
使をやると、まさに平の助は宴会の最中。

興義はなんでわかったのか訳を話し始めます。
自分が死んだ事にも気づかずに琵琶湖まで行って泳いでいた興義は、「魚になって自由に泳ぎたい」と願うと体が鯉になりました。
興義が泳いでいると、釣り針で釣られて平の助の屋敷まで連れて行かれます。
声をあげて助けを求めるも聞こえず、刀で切られる寸前に目が覚めたとのこと。

平の助はこの不思議な話を聞いて、残りの魚も全部逃します。
興義もその後、天寿を全うしました。
その際に興義の鯉の絵を湖に放すと紙から出て泳ぎ出したということです。
興義の弟子の成光も、鶏が本物と見間違える程の素晴しい鶏の絵を描くことで有名だったという話です。

仏法僧

伊勢国の拝志夢然という人が、末子の作之治と旅に出ました。
高野山に着くのが遅くなり、夜になってしまいます。
泊まる所が見つからず、仕方なく霊廟の前の灯籠堂で念仏を唱えて朝を待つことにしました。

するとどこからともなく「仏法仏法」と仏法僧という鳥の鳴き声が聞こえ、これを題材に夢然は「鳥の音も秘密の山の茂みかな」と一句詠みます。
もう一度声が聞きたいと待っていると、やってきたのはなんと豊臣秀次とその家臣の霊。

家臣は夢然の先程の歌を詠ませたり、一同は盛り上がります。

しかし家臣の一人が修羅の時が近づいている事を知らせると、急に殺気立ちます。
秀次は「部外者の二人も修羅の世界に連れていけ」と命じて二人は肝を冷やしますが、家臣がたしなめます。

気がつくと一同の姿は消えていました。

後に夢然が「瑞泉寺にある秀次の悪逆塚の横を通った時に、何か凄いものを感じた」と人へ語ったのをここにそのまま書きました。

吉備津の釜

あるところに正太郎という色欲の強い男がいました。
父の言うことも聞かずに遊び歩いていたので、嫁を迎えれば落ち着くだろうと縁談がまとめられます。

婚姻の前に吉凶を占う神事、御釜祓いをすると凶という結果が出てしまいます。
しかしもう縁談は進んでいた為、そのまま婚姻する事に。

嫁に来た磯良はよく出来た女性で、非の打ち所がありませんでした。
しかし時が経つにつれて正太郎はまた愛人をつくり、家に帰らなくなります。

挙句の果てには磯良を騙して金を奪い、愛人の袖と駆け落ちする始末。
磯良は心労で体調を崩してしまいます。

駆け落ちした正太郎でしたが、袖は何かに取り憑かれたように体調もおかしくなり、数日後に死んでしまいました。
正太郎はひどく悲しみ、毎日墓参りします。

そんなある日、墓に女が居ました。
話を聞くと仕える家の主人が死んでしまって、伏せてしまった奥方の代わりに来ているとのこと。
その女が美人だったこともあり、家まで行って奥方と悲しみを分かち合いに行くことになります。
家に行ってみると、屏風の奥から現れたのはなんと磯良でした。

血の気もなく恐ろしい姿をしていたので、正太郎は気絶してしまいます。

ふと気づくと、正太郎は三昧堂に居ました。
その出来事を知人に話すと、陰陽師を紹介されます。
陰陽師は「災いがすぐそこまで迫っている。こやつは袖という女の命も奪っているが、まだ恨みは晴れていない。四十九日が終わるまでの間、戸締まりをして一歩も外に出るな」と言います。

正太郎もこの言いつけを守り、その最後の日。
夜が明けたので外に出てみると、実は妖術でまだ夜だったのです。

声がしたので知人が見に行くとあたりは血だらけで、そこには正太郎の引きちぎられた男髷があるだけという恐ろしい光景でした。

陰陽師の占いの的中したこと、御釜祓いの示した凶兆もまさにそのとおりになったのは恐るべきことだと語り伝えられています。

蛇性の婬

紀伊国に、大宅の竹助という漁業経営者が居ました。
長男はしっかり者でしたが、三男の豊雄は家業を好まない厄介者でした。

ある日豊雄が外出から帰る時に大雨になり、小屋で雨宿りをします。
すると少女を連れた二十歳程の美しい女も雨宿りにきました。

豊雄は女に傘を貸し、後日女の屋敷に取りに行きます。
屋敷はとても立派で、豊雄は女と楽しい時を過ごしました。

すると女は、自分が夫を亡くした境遇である事を明かし、豊雄に求婚します。
豊雄も自分の立場を考えて迷うものの、ついには承諾して宝物の太刀まで貰って帰ります。

太刀が家族に見つかって責められる豊雄は真相を打ち明けますが、中々信じてもらえません。
家族は、この太刀は最近宝物庫から盗まれたという宝物の一つではないかと疑います。

そこで長男は大宮司の館へ行って事情を話します。
すると大宮司は「これは盗まれたものに違いない。その男を捕らえよ。」と言って、豊雄を捕まえます。

そして調査の為に女の屋敷に行ってみると廃墟になっていて、近所の人に聞いても三年前から人は住んでいないといいます。

勇気ある武士が先頭で屋敷に入ってみると、一人の美しい女が居ました。
女を捕まえようとしたその時、雷が鳴り響いて女の姿も消えてしまいます。

そしてそこには盗まれていた宝物の山が現れました。
これによって多少豊雄の罪は軽くなりましたが、釈放されたのは百日後でした。

豊雄は世間に顔向けが出来ないと、大和国に住む姉のもとへ向かいます。
翌年の春、近くの長谷寺に行くとあの女が現れました。

豊雄は恐れますが、女は「あれは身を守る為の謀略だった。宝も前の夫が盗んだものだ。」と弁解します。
豊雄は同情の気持ちと姉の説得もあり、女と結婚することにします。

しばらく仲良く暮らしていましたが、夫婦と少女で吉野に旅をした時、突然やって来た翁が「この邪神ども、なぜ人間をたぶらかす。わしの目を誤魔化せると思うな」と言うと、女と少女は突然滝に飛び込んで逃げてしまいました。

豊雄は驚き、大和神社に仕えているという翁に話を聞くと「この邪神は大蛇である。そなたの容姿に目をつけてつきまとっているが、気をつけないと命を落とす。あなたも男らしさを取り戻せば邪神を追い払う事が出来る」と忠告されます。

豊雄も改心し、姉のところに世話になるのはやめて実家で親孝行をしようと決意します。
実家に戻ると、両親が「いつまでも独り身だからこんな事になった。早く良い嫁を貰おう」と富子という女性と結婚します。

結婚二日目の夜、富子は突然女に取り憑かれ、豊雄を罵り始めます。
「こんな女と結婚するなんて。そんな事をするなら峰から谷まで旦那様の血で染め上げてみせましょう」
富雄が恐怖にふるえていると、突然あの少女が現れます。
それを見て豊雄は気絶。

翌朝目を覚まし、名のある法師に助けを求めますが、その法師も呪いで殺されてしまいます。

そこで別の和尚に頼むと、「この芥子の香が染み込んだ袈裟を女にかぶせなさい。」と袈裟を渡されます。
隙をついてなんとかこれをかぶせ、和尚もそこに何かを念じながら現れ、女と少女は蛇の姿になりました。
これを捕まえて鉄の鉢に入れ、地中深くに埋めてしまいます。

今もまだこの蛇塚があるとのこと。
富子は病気で亡くなってしまいましたが、豊雄は寿命を全うしたと伝えられています。

青頭巾

改庵禅師が旅に出ました。
下野国富田へさしかかって里に入ると、下人たちは「鬼が来た」と隠れてしまいます。

鬼ではない事がわかり出てきた下人たちに事情を聞くと、近くの山の上にある寺に、人肉を食らう鬼がいるとのこと。
禅師はこれを聞いて鬼を正道に戻そうと山に向かいます。

寺には僧がいて、禅師は一夜の宿を頼みました。

真夜中、食人鬼になった僧が現れて禅師を探しますが、見つかりません。
そのまま疲れ果てて倒れた僧が翌朝正気に戻ると、禅師は昨夜座った場所から一切動かずにいました。

「飢えているのなら自分の肉を差し出しても良い」という禅師に、僧は自分の浅ましさを恥じて救いを求めます。
そして、「江月照松風吹 永夜清宵何所為(つきはてらしてまつかぜふく よがながいのはどうしてなのか)」という句を授け、「この句の真意が解ければ仏心に出会えるだろう」と言い残し、旅に出ていきました。

一年後、また富田へやってきた禅師が下人に様子を聞くと、あの後鬼は出てこなくなったと喜んでいます。
禅師が様子を確かめようと寺に行くと、荒れ果てた庭の石の上であの句をつぶやく僧の姿があります。
禅師は「作麼生(そもさん)、何の所為ぞ」と僧の頭を叩くと、たちまち僧の体は消えて後には人骨と青頭巾だけが残りました。

禅師はこの山寺を真言密宗から曹洞宗に改め、住職に就任します。
今もこの大平山大中寺は栄えているとのことです。

貧福論

左内という男は日々倹約に励んでいて、暇があれば金貨を部屋に敷き詰めて楽しむような人物でした。
しかしケチという訳ではなく、下男が小判一枚を蓄えている事を知るとお金の大事さを説きながら十両の金をあげるような男だった為、庶民には人気がありました。

ある日、左内が寝ていると枕元に小さな翁が現れます。
黄金の精霊を名乗る翁は、色々語りたい為にやってきたといい、世の人々がお金を卑しいものとする風潮を嘆きます。

左内が「なぜ素晴らしい働きをする者でも貧しいものがいるのか」と質問すると、「お金は自然の道理で動くので、善悪の論理は関係がない」と答えます。
最後に翁は「堯蓂日杲 百姓帰家(へいわのしるしがあらわれて みながいえにかえるひがくる)」という句を残して、姿が見えなくなりました。

上田秋成について

上田秋成は1734年(享保19年)、大阪に生まれました。
自らが著した自伝によれば、実の父は誰なのか、生まれた時に生きていたのかすら分からないそうです。
母のヲサキとも4歳で養子に預けられて以降は1度会った事があるのみだといいます。

養子に入ったのは、堂島の紙油商の嶋屋。
しかし養子になった翌年に養母が亡くなってしまいました。

同年、秋成は痘瘡にかかって生死の境をさまよいます。
この時養父の上田茂助は加島稲荷に詣でてなんとか秋成を助けてほしいと祈りました。
すると寝ている時に「秋成に68の齢を与えよう」とお告げがあります。
そのかいもあってか秋成は回復しますが、後遺症で右手の中指と人差し指が短くなってしまいました。

剪枝畸人という雨月物語の序に記した名は、”枝を切る”いう文字に自身の指の短さを重ねたもの。
畸人というのも、荘子の子貢と孔子の問答に出てくる「畸人というのは普通の人間にとっては変わっているが、天と等しい人、つまり自然の人間のことだ」という一説によっています。

また秋成は無腸という号も名乗りましたが、これも短くなった指から蟹のハサミが連想される為です。

養母が亡くなった後、養父は再婚します。
病弱体質だった秋成ですが、養父とこの後母の愛情によって無事成長していきました。

10代のうちから俳諧に手を染め、27歳で6歳年下のたまと結婚します。
結婚翌年に養父が亡くなり、秋成は嶋屋の跡取りとなります。
しかしあまり商売熱心ではなく、道楽として文筆活動を続け、1766年に最初の仮名読み物「諸道聴耳世間猿」を書き上げます。
翌年には「世間妾形気」を刊行。その翌年には「雨月物語」を脱稿します。

秋成が38歳の時、火災で家を失います。
同年に国学の師である加藤宇万伎(かとううまき)と出会い、これをきっかけに秋成は医師として立つ決意をしました。

57歳の時、秋成は左眼を失明。そして後母の死や養子に迎えようとした隣の家の少年の死などに失望します。
そしてたまの故郷である京都に移住して医師も辞めてしまいます。
この時秋成は60歳。

ここからは文事一筋の生活を送りますが、64歳の時に妻が亡くなります。
更に右目の視力も失い、全盲となってしまいました。
絶望した秋成でしたが、神医と呼ばれる眼科医によって左眼の視力が回復します。

視力を回復した後は、取り憑かれたように作品を創作していきました。

秋成の主な著作

諸道聴耳世間猿(しょどうききみみせけんざる)
1766年
15話より成る浮世草子
世間妾形気(せけんてかけかたぎ)
1767年
12話より成る浮世草子
雨月物語(うげつものがたり)
1776年
怪異小説9篇から成る読本
書初機嫌海(かきぞめきげんかい)
1787年
「京・江戸・大阪」の新春風俗を描いた滑稽本
春雨物語(はるさめものがたり)
1808年
10篇から成る読本
癇癖談(くせものがたり/かんぺきだん)
1822年
24の小話から成る戯文小説

まとめ

いかがでしたでしょうか。
難しいイメージのある古典作品でも、現代語訳で読んでみると「こんなに面白い作品だったのか」と発見出来ると思います。
是非一度読んでみて下さいね。

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