俵屋宗達・本阿弥光悦に始まった琳派を大成させた芸術家、尾形光琳(おがたこうりん)。
しかし若い頃は遊び人で、本格的に絵を描き始めたのは40歳を過ぎてからでした。
今回はそんな尾形光琳の生涯をご紹介します。
尾形光琳の生涯
尾形光琳の生涯とエピソードをご紹介します。
尾形光琳の誕生
尾形光琳は万治元年(1658年)、雁金屋という京都でも有数の呉服商の次男として生まれました。
尾形家は光琳の4代前から京都に住み始め、光琳の曾祖父は本阿弥光悦の姉、法秀(ほうしゅう)を妻として迎えている名家でした。
光琳が絵師の道に進み始めたのは10代後半、尾形家にも陰りが見え始めていた頃でした。
その後光琳が30歳の時、父が亡くなってしまいます。
相続した財産も早々に使い切ってしまい、いよいよお金に困った為に光琳はようやく本格的に絵を描き始めました。
芸術家、光琳
元禄14年(1701年)、光琳は宮廷から法橋(ほっきょう)という称号を賜ります。
この称号によって絵師としての活動もしやすくなり、直後に「燕子花図屏風」が製作されます。
40歳を越えた光琳は町人の娘である多代と結婚します。
しかし、その後も別の女性である”さん”との間に子の辰次郎を設けるなど、複数の女性との間に子どもが生まれています。
そんな光琳の作品製作を支えていたのが、中村内蔵介(なかむらくらのすけ)でした。
中村内蔵介は金銀改鋳で巨額の富を築き、元禄12年には銀座年寄役にも就任しています。
このパトロン=中村内蔵介の経済的支援もあり、後に光琳は江戸へ行きます。
ここで大名家との関係を築いたことが、後の屏風絵の注文へと繋がっていったのです。
また光琳は江戸に滞在中、雪舟や雪村の水墨画と出会います。
更に狩野派の画風を学び、浮世絵の美人画にも挑戦するなど、江戸で様々な刺激を受けました。
京都に戻ったのは、光琳が52歳の時。
ここから光琳の数々の名作「風神雷神図屏風」や「紅白梅図屏風」などが誕生していきます。
そして京都に戻った8年後、正徳6年6月2日に尾形光琳はこの世を去りました。
光琳が残した作品は絵だけではなく、蒔絵や焼き物、団扇など多岐にわたっています。
主な有名作品
尾形光琳の主な有名作品を一覧でご紹介します。
八橋蒔絵螺鈿硯箱
尾形光琳作 八橋蒔絵螺鈿硯箱 18世紀 東京国立博物館 国宝 pic.twitter.com/30EKIMv2Ev
— 美術すき! (@fsc1234567) November 26, 2015
八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)は、伊勢物語に出てくる三河国八橋の情景を描いた作品です。
国宝に指定されており、東京国立博物館に所蔵されています。
白綾地秋草模様小袖
白綾地秋草模様小袖(しろあやじあきくさもようこそで)は、光琳が江戸滞在でお世話になっていた冬木家の女性の為に製作したといわれています。
重要文化財に指定されており、東京国立博物館に所蔵されています。
銹絵観鴎図角皿
銹絵観鴎図角皿(さびえかんおうずかくざら)は、光琳の弟である尾形深省(乾山)との合作で作られた作品です。
中国宋代の詩人、黄山谷が鴎を眺めている図案となっています。
重要文化財に指定されており、東京国立博物館に所蔵されています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は天才マルチアーティスト・尾形光琳(おがたこうりん)の生涯と作品をご紹介しました。
その他については下記の関連記事をご覧下さい。