古事記(こじき)は712年(和銅5年)に書かれた歴史書で、編者は太安万侶です。
今回はそんな高校古典の教科書にも出てくる古事記の中から「倭建命」について詳しく解説していきます。
古事記「倭建命」の解説
古事記でも有名な、「倭建命」について解説していきます。
古事記「倭建命」の原文
そこより入り出でまして、走水の海を渡りし時に、その渡りの神、波を起こし、船を巡らせば、進み渡ること得ず。
しかして、その后、名は弟橘比売命、申しく、
「我、御子に代はりて、海の中に入らむ。御子は遺はさえし政を遂げ、返り言申すべし。」
と申しき。
海に入らむとするときに、菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重をもつて波の上に敷きて、その上に下りましき。
ここに、その荒波おのづからなぎて、御船進むこと得たり。
しかして、その后の歌ひて言はく、
故、七日の後に、その后の御櫛、海辺に寄りき。
すなはち、その櫛を取り、御陵を作りて納めおきき。
そこより入り出でまし、ことごとく荒ぶる蝦夷どもを言向け、また、山川の荒ぶる神たちを平らげ和して、帰り上り出でましし時に、足柄の坂本に至りて、御粮を食む所に、その坂の神、白き鹿となりて来立ちき。
しかして、すなはち、その食ひ残せる蒜の片端をもちて、待ち打ちしかば、その目に当てて、すなはち打ち殺しき。
故、その坂に登り立ちて、三度嘆きて、詔り給ひて言ひしく、
「あづまはや。」
と言ひき。
故、その国を名づけて、あづまといふ。
そこより出でまして、三重の村に至りし時に、また詔り給ひしく、
「我が足は三重に曲がれるがごとくして、はなはだ疲れたり。」
と詔り給ひき。
故、そこを名づけて、三重といふ。
そこより出でまして、能煩野に至りし時に、国を偲ひて、歌ひて言はく、
また、歌ひて言はく、
この歌は、国偲ひ歌ぞ。
また、歌ひて言はく、
これは、片歌ぞ。
この時に、御病、いとにはかなり。
しかして、御歌に言はく、
歌ひ終はりて、すなはち、崩りましき。
古事記「倭建命」の現代語訳
そこ(焼遣)から入って行かれて、走水の海を渡った時に、その海峡の神が、海を起こし、(倭建命の乗った)船を回転させたので、(海峡を)進み渡ることができない。
そこで、その(倭建命の)后で、名は弟橘比売命(という方が)、申し上げたことには、
「私が、御子(倭建命)に代わって、海の中に入りましょう。御子は、(景行天皇から)遣わされた政務を成し遂げ、(天皇に)ご報告申し上げねばなりません。」
と申し上げた。
海に入ろうとするときに、菅で編んだござを何枚も、毛皮の敷物を何枚も、粗く織った絹の敷物を何枚も(重ねて)それで海の上に敷いて、その上にお下りになった。
それで、その荒波は自然と静まって、御船は進むことができた。
それで、七日の後に、その后の御櫛が、海辺に流れ着いた。
そこで、その櫛を取り、御簾を作って(その中に櫛を)納め置いた。
(倭建命は)そこから奥に入って行かれ、ことごとく暴れる蝦夷たちを言葉によって従わせ、また、山川の暴れる神々を平定し帰順させて、(大和に)帰り上っておいでになる時に、足柄峠の坂の下に至って、お食事を食べている所に、その坂の神が、白鹿となってやって来た。
そこで、すぐに、その食べ残してあった野蒜の片隅で、待ち構えて打ったところ、その(白鹿の)目に当てて、たちまち打ち殺した。
そこで、(倭建命は)その坂に登り立って、三度嘆息して、おっしゃって言うことには、
「わが妻よ。」
と言った。
そこで、その国を名づけて、あづま(東)という。
そこからお出になって、三重の村に至った時に、またおっしゃったことには、
「私の足は三重に折れ曲がってしまったようになって、ひどく疲れてしまった。」
とおっしゃった。
それで、そこを名づけて、三重と言う。
そこからお出になって、能煩野に至った時に、(故郷である大和の)国を懐かしんで、歌って言うには、
また、歌って言うには、
この歌は、望郷の歌である。
また、歌って言うには、
これは、片歌である。
この時に、ご病気が、急変して危篤状態になった。
そうして、(詠んだ)御歌に言うには、
歌い終わって、たちまち、お亡くなりになった。
古事記「倭建命」の単語・語句解説
(奥へと)入って行かれて。
[進み渡ること得ず]
進み渡ることができない。
[しかして]
そこで。
[后]
本来は天皇の夫人をさす語。
[申ししく]
申し上げたことには。
[遣はさえし政]
遣わされた政務。
[返り言]
使者が、帰ってからする報告。
[八重]
幾重にも重なっている様子を表す。
[下りましき]
(后が海の上に)お下りになった。
[荒波おのづからなぎて]
荒波が自然と静まって。
[言はく]
言うことには。
[小野]
野原。地名ではない。
[故]
それで。さて。
[海辺に寄りき]
(櫛が)海辺に流れ着いた。
[すなはち]
①即座、そのころ(名詞)、②つまり、そこで(接続詞)、③すぐに、たちまち(副詞)、の用法があるが、ここでは②の意で用いられている。
[御陵]
天皇・皇后の墓。
[荒ぶる]
暴れる。
[平らげ]
平定して。治めて。
[帰り上り出でましし時に]
(東国を平定して倭建命が)大和に帰り上っておいでになる時に。
[食む]
飲食する。
[来立ちき]
やって来た。
[待ち打ちしかば]
待ち構えて(蒜で白鹿を)打ったところ。
[詔り給ひて]
おっしゃって。
[言ひしく]
言ったことには。
[あづまといふ]
東国、の意の「あづま」は、倭建命が入水した弟橘比売命を想って発した「わが妻よ。」という言葉が起源である、ということ。
[また詔り給ひしく]
またおっしゃったことには。
[三重に曲がれるがごとくして]
三重に折れ曲がってしまったようになって。
[国を偲ひて]
「国」は倭建命の故郷である大和の国をさす。
[まほろば]
優れた場所の意。
[山隠れる]
山々に囲まれた。
[倭しうるはし]
大和の国は美しい。
[その子]
お前たちよ。
[国偲ひ歌]
望郷の歌。
[雲居立ち来も]
雲が立ち上ってくることよ。
[にはかなり]
突然だ。急だ。
[床の辺にわが置きし剣の太刀]
「床」は、ここでは寝床のこと。(美夜受比売の)寝床の辺りに、私が(自分で)置いてきた太刀(草那芸の剣)。
[すなはち]
ここでは副詞で、すぐに、たちまちに、…するやいなや、の意。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は古事記でも有名な、「倭建命」についてご紹介しました。
その他については下記の関連記事をご覧下さい。
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