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風姿花伝のわかりやすい解説と世阿弥の生涯|原文内容と現代語訳

能楽
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二十四・五

原文
この頃、一期の芸能の定まるはじめなり。
さるほどに、稽古の堺なり。
声もすでに直り、体も定まる時分なり。
さればこの道に二つの果報あり。声と身なりなり。
これ二つは、この時分に定まるなり。
年盛りに向かふ芸能の生ずる所なり。

さるほどによそ目にも、すは、上手出で来たりとて、人も目に立つるなり。
もと、名人などなれども、当座の花に珍しくして、立合勝負にも一旦勝つ時は、人も思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。
これ、かへすがへす主のため仇なり。
これもまことの花にはあらず。
年の盛りと、見る人の一旦の心の、珍しき花なり。
まことの目利きは見分くべし。

この頃の花こそ初心と申す頃なるを、極めたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説(りんぜつ)とし、至りたる風体をする事、あさましき事なり。
たとひ人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦、珍しき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直ぐに為(し)定め、なを得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。
されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。
ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。
初心と申すは、この頃の事なり。

一、公案して思ふべし。
わが位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は、一期失せず。
位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。
よくよく心得べし。

現代語訳

このころ、一生の芸能の位が定まる、ちょうどその分れ目の所に当たっている。
だから、稽古もここが肝心かなめの所である。
変声期は既に終わり、体も安定してくる。

しかるに、能という芸能にとっては、二つの幸いがなくてはならぬ。
声と体の二つである。
この二つはまさにこの時期に善し悪しが定まると言ってよい。

そうして、これから段々に全盛期に向かっていく本格的芸能の生まれてくる時期がこの頃なのだと言うことが出来るであろう。
さあ難しいのはここである。

なにしろこの時期には、第三者から見ても「ややっ、これは上手な役者が出てきたぞ」というような事になって、やたら称賛を浴び、人目に立つということがある。
その為に、たまさか名人と呼ばれるような人と能の立会い菖蒲をして、若造のくせに勝ったりする事もある。

これはしかし、叙上の意味でかりそめの物珍しさの魅力で勝っただけなのだが、それでも廻りはチヤホヤするだろうし、勝った本人はすっかり舞い上がって、己はもう上手の位に上がったのだと思いこんでしまう。
これは返す返すも本人の為にならぬ。

この時分の魅力というものもまた、まことの花ではない。
若盛りの美しさと、まだ物珍しさが見るほうにあるための、かりそめばかりの魅力なのだ。
そのところを、本当に目の利く人はちゃんと見分るであろう。

この時期の花こそ、芸道にとっては、ようやく「初心」という程度のことなのであるが、もういっぱし芸を窮めたようなつもりになってしまう者もいて、申楽を演ずるにもなにやら変則的なやり方で演じて見せたりして、いわゆる名人気取りの様子をすることは、これまことに浅ましいことと言わねばならぬ。

それでたとい人も褒め、立会いの勝負で本当の名人に勝つことがろうとも、それはほんの一時の「物珍しさの魅力」なのだと自らに思い定めて、ますますまっすぐに定式通りの写実演技をするように励み、より高い芸格の役者衆にあれこれと細かなところまで教えを乞い、稽古はさらにいや増しに尽すのがよい。

すなわち、こういうことである。
一時かりそめの花をほんとうの花だと思いこんでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。

そんなふうにして、誰もかれも、この一時かりそめの花を褒められて有頂天になる結果、すぐにその花は失せてしまうのだということも悟らない。
「初心」というのは、子供時代のことでない。

まさにこの人も褒める若盛りのことなのである。

一、各自内省熟慮して思うべきことがある。
己の芸の格をよくよく心得て勘違いしないようにしていれば、それ相応の花は一生のあいだ失せることがない。

しかし、慢心して相応の位よりも上手なのだと思い込んだら最後、それまで持っていた花もすべて消え失せてしまうのだということである。
このあわいをよくよく思っておかなくてはならぬ。

三十四・五

風姿花伝第一「年来稽古条々」の「三十四・五」です。

原文
この頃の能、盛りの極めなり。
ここにて、この条々を窮(きわ)め悟りて、堪能になれば、定めて天下に許され、名望を得つべし。
もしこの時分に、天下の許されも不足に、名望を思ふ程になくは、いかなる上手なりとも、いまだまことの花を窮めぬ為手(して)と知るべし。

もし窮めずは、四十より能は下がるべし。
それ、後の証拠なるべし。

さるほどに、上がるは三十四・五までの頃、下がるは四十以来なり。
返すがへす、この頃天下の許されを得ずば、能を窮めたりととは思ふべからず。

ここにてなほ、慎むべし。この頃は、過ぎし方をも覚え、また、行く先の手立(てだて)をも覚る時分なり。この頃極めずば、こののち天下の許されを得ん事、返すがへすかたかるべし。

現代語訳

この年ごろの能は、あらゆる意味で全盛で窮める。

したがって、この時期に至って、この伝書に書きおく条々をよくよく悟得(ごとく)して、行き届いた芸域に達するならば、かならずや天下の見巧者にも認められて、芸能者として一流の名を得るであろう。

反対に、もしこの時期になっても、天下の見巧者には認められず、その結果大した名声も得られないのであれば、一見いかに達者に芸をするように見えても、それはいまだ「真実の花」を会得しているシテ(役者)とは考えがたい。

そうして、もうこの年ごろが絶頂の時期なのだから、もしこの頃までに「真実の花」を会得し得なかったならば万事休す、四十を過ぎてからどのように芸が堕ちていくかということを見れば、その者が真実の花を会得していたか否かが分かるというものである。

というわけであるから、芸の力が進歩向上するのはせいぜい三十四・五までのこと、そして芸が衰え始める境目が四十のころなのだ。
くれぐれも言っておくが、だからこの三十四・五のころまでに天下に名声を確立出来なかった者は、ゆめゆめ能を窮めたなどと思ってはいけない。

この時期には、なお一層自省熟慮しなければならぬことがある。
すなわち、自分がそれまでに学んできたあれこれの事を反省し、またこれから先どのような方法で進んでいくべきか、そのことをよく考えるべき時だという事である。

重ねて言っておくが、この時分に芸を窮め真実の花を会得していなかったならば、これから先どんなに頑張っても天下に名人の名を許されることはまずありえないのである。

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