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風姿花伝のわかりやすい解説と世阿弥の生涯|原文内容と現代語訳

能楽
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四十四・五

原文
この頃よりは、能の手だて、おほかた変はるべし。
たとひ天下に許され、能に得法(とくほう)」したりとも、それにつけても、よき脇の為手(して)を持つべし。
能は下がらねども、力なく、やうやう年たけゆけば、身の花も、よそ目の花も失するなり。
まづすぐれたらん美男は知らず、よきほどの人も、直面(ひためん)の申楽は、年寄りては見られぬものなり。さるほどにこの一方は欠けたり。

この頃よりは、さのみに細かなる物まねをばすまじきなり。
おほかた、似合ひたる風体を、やすやすと、骨を折らで、脇の為手に花を持たせて、あひしらひのやうに、少な少なとすべし。
たとひ脇の為手なからんにつけても、いよいよ、細かに身を砕く能をばすまじきなり。
なにとしても、よそ目、花なし。
もしこの頃まで失せざらん花こそ、まことの花にてはあるべけれ。

それは、五十近くまで失せざらん花を持ちたる為手ならば、四十以前に天下の名望を得つべし。
たとひ天下の許されを得たる為手なりとも、さやうの上手は、ことに我が身を知るべければ、なほなほ脇の為手をたしなみ、さのみに身を砕きて難の見ゆべき能をばすまじきなり。
かやうに我が身を知る心、得たる人の心なるべし。

現代語訳

この年ごろからは、能の演じ方ががらりと変わるはずである。
たとい天下に名人の声価を許されて、実際に能の奥義を得悟したとしても、大切なことは、良い助演者を持つということである。

前段に言った「真実の花」を会得した名人ともなれば、そうやすやすと技量が下がっていくこともあるまいけれど、ただ年齢というものはいかんともしがたいところであって、だんだんに高齢になっていくにしたがって、身体的な華やぎも、また観客から見た魅力も失せていくのは、避けられない。

たとえば、ともかく抜群の美男などは別として、相当の姿よき人であっても、面を掛けずに素顔で演じる演目(直面の能)は、年寄ってからはとうてい見られたものではない。
ということは、すでにこの直面の能という一分野は欠けてしまったということである。

だから、この年齢になってきたら、むやみと細密な写実の演技などはするものでない。
だいたい自分に似合った風体の曲を、さほどな苦労もせずして、さらりさらりと演じつつ、むしろ若い助演者に花を持たせて、自分のほうがかえって助演者みたいな感じで内端(うちわ)内端に演じるのがよろしい。

もし優れた助演者が得られないとしても、だからといって、年がいもなく、俊敏に動き回り身を砕くような演目をやるべきでない。
自分ではちゃんと出来ているつもりでも、観客のほうから見れば、なんとしても見た目の花が無くなっているのだから。

とはいいながら、本当の名手ならば、この年齢になってもなお見どころ魅力が十分残っているはずで、その失せないで残っている花こそが、本当の花であるにちがいない。

こうした場合、五十近くまでなお残っている花を持っているシテならば、必ずやすでに四十以前に天下の名人の名を許されているはずのところである。

そうしてさように天下に名声を得た演者となれば、なおのこと、己というものを良く心得ておいて然るべきものであって、普通の人よりもいっそう十全に助演者を吟味して、その若いものに任せるべきところは任せ、自分はさように身を砕くような写実演技などをして身の衰えを露見せしめるようなまねをするべきでない。

つまり、そういうふうに、己の身の状態をきちんと認識して、今何をすべきかを知る人が、真の芸を会得した本当の名手というべきものである。

五十有余

風姿花伝第一「年来稽古条々」の「五十有余」です。

原文
この頃よりは、おほかた、せぬならでは手だてあるまじ。
「麒麟も老いては弩馬(どば)に劣る」と申す事あり。
さりながらまことに得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見どころは少なしとも、花は残るべし。

亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河国浅間(せんげん)の御前にて法楽(ほうらく)つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。
およそその頃、物数をばはや初心に譲りて、やすき所を少な少なと、色へてせしかども、花はいや増しに見えしなり。

これ、まことに得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。
これ、目のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。

年来稽古 以上。

現代語訳

こういう年齢になったら、およそ、「何もしない」ということ以外にはこれという手だてもあるまい。
「麒麟も老いては駑馬に劣る」ということわざがある。

それはいかんともしがたい現実ではあるが、とは申しながら、真実奥底深く能を会得した者ならば、次第に演じる曲目も技ももうすっかり失せに失せて、いかにも見どころが少なくなってしまっていたとしても、それでもなにがしかの「花」は残っているであろう。

亡父観阿弥と申すものは、五十二歳という年の五月十九日に死去したが、その同じ月の四日の日に、遠く駿河の国、浅間神社の宝前で奉納の能を奉った。
その日の申楽能は一段と華やかで、見物の皆々身分の高きも賤しきも等しくこれを称賛したということがある。

亡父は、およそその頃には、もうあれもこれもほとんどの演目を私ども若いものに譲ってしまって、自身は体に無理のないところを、動きは内端に内端に舞いながら、しかし、しっとりとした彩りを込めて演じたので、老いてなお花はいよいよ盛りに見えたものであった。

この花は、亡父がまことに会得した真実の花であったために、実際の動きは最小限で、あたかももう枝も葉も少なくなった老木のようになっていても、それでも花は散り失せずに残っていたのである。

これが、私が目の当たりにした「老いてなお残っていた花」のなによりの証拠である。
年来の稽古については、以上である。

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まとめ

いかがでしたでしょうか。
今回は室町中期に書かれた能楽書の傑作、世阿弥の「風姿花伝」についてご紹介しました。

その他については下記の関連記事をご覧下さい。

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