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徒然草の原文内容と現代語訳|兼好法師の生涯

秋のすすき
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第71段|名を聞くより

[要約]
既視体験の不思議

原文

名を聞くより、やがて面影は推し量らるる心地するを、見る時は、またかねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。
昔物語を聞きても、このごろの人の家の、そこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。

また、いかなる折ぞ、ただ今人の言ふことも、目に見ゆるものも、我が心のうちも、かかることのいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

現代語訳

名前を聞くやいなや、すぐに顔つきが自然と推測される気持ちがするのに、会って見る時は、また以前から思っていたままの顔をしている人はいないものである。
昔物語を聞いても、現在の人の家の、その辺りであっただろうと思われ、人も、今見る人の中に自然に思い比べられるのは、誰もこのように感じるのであろうか。

また、何かの折に、今人が言っていることも、目に見えるものも、自分の心の中のことでも、このようなことがいつかあったかなあと思われて、いつとは思い出せないけれども、確かにあった気持ちがするのは、自分だけがこのように思うのだろうか。

第74段|蟻のごとくに

[要約]
一生は短く、万物は常に流転している

原文

蟻のごとくに集りて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。
高きあり、賎しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり帰る家あり。夕に寝(い)ねて、朝に起く。
営む所何事ぞや。生をむさぼり利を求めてやむ時なし。

身を養ひて何事をか待つ、期(ご)するところ、ただ老(おい)と死とにあり。
その来る事速かにして、念々の間に留まらず。これを待つ間、何の楽しみかあらむ。

惑へるものはこれを恐れず。
名利に溺れて、先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれをかなしぶ。
常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。

現代語訳

人間がこの都に集まって、蟻のように東西南北にあくせく走り回っている。
その中には地位の高い人や低い人、年老いた人や若い人が混じっている。それぞれ働きに行く所があり、帰る家がある。帰れば、夜寝て、朝起きて、また仕事に出る。
このようにあくせくと働いていったい何が目的なのか。
要するに自分の生命に執着し、利益を追い求めてとどまる事が無いのだ。

このように、利己と保身に明け暮れて何を期待しようというのか。何も期待できやしない。待ち受けているのは、ただ老いと死の二つだけである。
これらは、一瞬もとまらぬ速さでやってくる。それを待つ間、人生に何の楽しみがあろうか。何もありはしない。

生きることの意味を知ろうとしない者は、老いも死も恐れない。
名声や利益に心奪われ、我が人生の執着が間近に迫っていることを、知ろうとしないからである。逆に生きる意味がわからない者は、老いと死が迫り来ることを悲しみ恐れる。
それは、この世が永久不変であると思い込んで、万物が流転変化するという無常の原理をわきまえないからである。

第75段|つれづれわぶる人

[要約]
面倒な人付き合いは捨ててしまえ

原文

つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。
紛るる方なく、ただ一人あるのみこそよけれ。

世に従へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。
人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。
惑ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。
走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。

いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。

現代語訳

時間をもてあます人の気が知れない。
何の用事もなくて独りでいるのが、人間にとっては最高なのだ。

世の中のしきたりに合わせると、欲に振り回されて迷いやすい。
人と話をすると、ついつい相手のペースに合わせて自分の本心とは違った話しをしてしまう。
世間との付き合いでは、一喜一憂する事ばかりで、平常心を保つことは出来ない。
あれこれ妄想がわいてきて、損得の計算ばかりする。
完全に自分を見失い、酔っぱらいと同じだ。酔っ払って夢を見ているようなものだ。
せかせか動き回り、自分を見失い、ほんとうにやるべきことを忘れている。それは、人間誰にもあてはまることだ。

まだこの世の真理を悟ることはできなくとも、煩わしい関係を整理して静かに暮らし、世間づきあいをやめてゆったりした気持ちで本来の自分を取り戻す。
これこそが、ほんの短い間でも、真理に近づく喜びを味わうといってよいのである。
日常の雑事、義理づきあい、もろもろの術、がりべんなどとは縁を切れというふうに「摩訶止観」にも書いてある。

第79段|何事も入り立たぬ

[要約]
知ったかぶりをしてはいけない

原文

何事も入りたたぬさましたるぞよき。
よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ。

片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。
されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。

よくわきまへたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。

現代語訳

どんな場合でも、よく知らないふりをするにかぎる。
立派な人間は、知っていても知ったかぶりをしないものだ。

軽薄な人間に限って、何でも知らない事はないといった返事をする。
だから、聞いている相手が圧倒されることもあるが、本人自身が自分からすごい思い込んでいるさまは、どうにも救いがたい。

よく知っている方面については、口数少なく、聞かれない限りは黙っているのが一番である。

第82段|羅の表紙は

[要約]
不完全だから良い

原文

「羅(うすもの)の表紙は、疾(と)く損ずるが侘しき」と人のいひしに、頓阿が、「羅は上下はづれ、螺鈿(らでん)の軸は、貝落ちて後こそいみじけれ」と申し侍りしこそ、心勝りて覚えしか。

一部とある草紙などの、同じやうにもあらぬを、醜しといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具に整へんとするは、拙(つたな)き者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。

すべて、何も皆、事の整(ととの)ほりたるはあしき事なり。
し残したるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶる事(わざ)なり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を殘す事なり」と、ある人申し侍りしなり。

先賢の作れる内外(ないげ)の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

現代語訳

「薄絹で装丁した本の表紙は、傷みが早くて困る」と嘆く人がいた。それに対し、友人の頓阿(とんあ)が「薄絹の表紙は、上下の縁が擦り切れてほつれたほうが、また、巻物の螺鈿の軸はちりばめた貝が落ちた後のほうが深い味わいが出るものだ」と答えたのには、感心させられ、彼を改めて見直した。

何冊かをひとまとめにして一部とする草子の場合、各冊の体裁が不揃いなのはみっともない、と文句をつけるのがふつうだ。けれども、孔融僧都の、「品物をきっちり同じに揃えようとするのは、ものの命がわからない人間のすること。不揃いこそが最上なのだ」という言葉には、我が意を得た思いがした。

何事においても、すべて完全に整い完結しているのは、かえってその仕事の命が終わることになり、よろしくない。
やり残した部分を、そのままに放置してあるのは、味わいも深く、仕事の命を将来につないでやる方法なのだ。
「内裏を造営する時も、必ず未完の部分を残すものだ」と、ある人が言ったそうだ。

そういえば、古代の賢人の仏教・儒教の書物にも章段の欠けたものが多い。

第92段|ある人、弓射ることを習ふに

[要約]
決心即実行の難しさ

原文

ある人、弓射ることを習ふに、諸矢をたばさみて的に向かふ。
師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。のちの矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度ただ得矢なく、この一矢に定むべしと思へ。」と言ふ。
わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。
懈怠の心、自ら知らずといへども、師これを知る。
この戒め、万事にわたるべし。

道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。
いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。
なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難き。

現代語訳

ある人が、弓を射ることを習う際に、二本一組の矢を手に挟み持って的に向かう。
先生が言うことには、「初心者は二本の矢を持ってはいけない。あとの矢をあてにして、初めの矢をいい加減に思う気持ちがあるからである。矢を射るたびに当たるか当たらないかを考えずに、この一本の矢で必ず的を射抜こうと思え。」と言う。
たった二本の矢で、先生の前で一本をいい加減にしようなどと思うだろうか、いや思いはしない。
怠けおこたる心は、自分では意識しないといっても、先生はこれをわかっている。
この戒めは、全てのことに通じるであろう。

仏道を学ぶ人は、夕方には翌朝のあることを思い、朝には夕方があることを思って、もう一度丁寧に修行しようと予定する。
ましてほんの一瞬間のうちに、怠けおこたる心のあることを気づくだろうか、いや、気付きはしない。
なんとまあ、ただ今の一瞬において、すぐ実行することの非常に難しいことよ。

第93段|牛を売る者

[要約]
生を愛せ

原文

されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。
存命の喜び、日々に楽しまざらむや。

愚かなる人、この楽しみを忘れて、いたづがはしく外の楽しみを求め、この財(たから)を忘れて、危く他の財を貪るには、志、満つる事なし。
生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。
人みな生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。

もしまた、生死(しゃうじ)の相にあづからずといはば、まことの理を得たりといふべし。

現代語訳

人間誰しも死ぬのがいやならば、だからこそ今ある命を愛するべきなのだ。
命ながらえる喜びを、毎日大切に楽しまなくてはいけない。

愚かな人間はこの楽しみを知らず、物欲に振り回されてあくせくしている。
命という宝を忘れて、やたらと快楽や金銭という別の宝ばかり追い求めていては、いつまでたっても心満たされることはない。そんなふうにして、生きている時に生きる喜びを楽しまないで、いざ死ぬ時になって死を恐れるならば、私の言う理屈とは合わない生き方をしていることになる。
つまり、誰もが生きる喜びを楽しもうとしないのは、死を恐れないからだ。いや、死を恐れないからではなく、人間はいつも死と隣合わせに生きているという自覚がないからなのだ。

あるいはまた、それが生きるか死ぬかという次元にとらわれないで生きているというのならば、それこそは人生の真理を悟っているといってよい。

第108段|寸陰惜しむ人

[要約]
一生は短い。わずかな時間も大切にすべし。

原文

寸陰惜しむ人なし。
これよく知れるか、愚かなるか。

愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しといへども、これを累(かさ)ぬれば、貧しき人を富める人となす。
されば、商人(あきびと)の一錢を惜しむ心、切なり。

刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期(ご)、忽ちに到る。

されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。
ただ今の一念、空しく過ぐることを惜しむべし。

もし人來りて、わが命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか營まむ。
我等が生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん。

一日のうちに、飮食(おんじき)・便利・睡眠・言語(ごんご)・行歩(ぎゃうぶ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。

その餘りの暇、いくばくならぬうちに無益(むやく)の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟(しゆい)して、時を移すのみならず、日を消(せう)し、月をわたりて、一生をおくる、最も愚かなり。
(略)
光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、修(しゅう)せむ人は修せよとなり。

現代語訳

短い時間を積み重ねて、大切に使う人はいないものだ。
これは短い時間を惜しむ必要はないという意味をよく知っている人なのか、それとも、全然知らない愚か者なのか。

知っている人はともかく、知らないで時間を無駄にしている怠け者の為に、忠告しておきたい。一銭はわずかな金だが、これが貯まると貧乏人を金持ちにする。
だから、商売人が一銭を惜しむ心は切実なのだ。

同様に、一瞬のような短時間は、その流れをはっきり意識するのは難しいが、だからといってその一瞬を放っておいては人間の一生はたちまち最期を迎えてしまう。

従って、その道を極めようとする者は、一日とか一月という長い時間を惜しむような態度ではだめだ。
今生きて意識しているこの一瞬が、無駄に過ぎてしまう事を惜しまなくてはいけない。

例えば、人がやってきて、貴方は明日必ず死ぬと教えてくれた場合、今日が終わるまでの間、何を頼りにして、どんなことをするだろうか。
私たちが生きているこの今日という日も、明日死ぬと言われたあの今日という日と、全く変らないのだ。

私たちは一日の間に、食事・排便・睡眠・会話・歩行など、生きていく為にはやむを得ず多くの時間を使っている。その残りの時間は、いくらもない。

そんな状況にありながら、意味のないことをし、意味のない事を喋り、意味のない事を考えて、時間を消費してしまう。
そればかりか、そんなふうにして一日を費やし、一月を過ごし、一年を送り、ついには一生を送ってしまう。なんとも愚かな事である。
(略)
それならば、何のために時間を惜しむのかといえば、つまらないことに心を遣わず、世間との付き合いを絶って真理を追求する志を遂げよ、というわけなのである。

第121段|養ひ飼う物には

[要約]
ペットを飼うなどもってのほか。

原文

走る獣は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠(こ)に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁(うれ)へやむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。

現代語訳

走る獣は檻に閉じ込められ錠をかけられ、また、飛ぶ鳥はつばさを切られ籠に入れられる。
鳥が空を飛び回りたいと願い、獣が野山を駆け巡りたいと思う悲しみは、いつまでも尽きる時がない。
そうした鳥・獣の苦しみを、わが身に引き受けて耐え難く思うようならば、情愛の深い人の場合、それらを飼って楽しむだろうか。
まずありえない。

第137段|花は盛りに①

[要約]
物事は盛り以外にも魅力がある

原文

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。

歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れる事かは。

花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。

現代語訳

桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らない。
物事の最盛だけを鑑賞する事が全てではないのだ。
例えば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思い焦がれ、あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外の様子を目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。
今にも花ひらきそうな蕾(つぼみ)の桜の梢や、桜の花びらが落ちて散り敷いている庭などは、とりわけ見る価値が多い。

作歌の事情を記した詞書も、「花見に出かけたところ、もうすでに花が散ってしまっていて見られなかった」とか、「用事があって花見に出かけず、花を見なかった」などと書いてあるのは、「実際に花を見て」と書くのに、劣っているだろうか。そんなことはない。

確かに、桜が散るのや、月が西に沈むのを名残惜しむ美意識の伝統はよくわかる。
けれども、まるで美というものに無関心な人間に限って「この枝も、あの枝も散ってしまった。盛りを過ぎたから、もう見る価値はない」と、短絡的に決めつけるようだ。

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