俳句と芭蕉。17音に込められた人生観と旅への思い

松尾芭蕉
8月19日は「俳句の日」。俳句は世界で最も短い詩の形でわずか17音に、詠み手の思いやその時の情景が込められています。
この17音を極めたのが松尾芭蕉。俳句にささげた彼の人生を追ってみましょう。

[目次]
1.俳句の成り立ち
2.芭蕉の青年時代
3.芭蕉と旅
4.芭蕉の俳句
5.俳句の楽しみ

1.俳句の成り立ち

俳句はもともと鎌倉時代に生まれた連歌から派生したものです。
連歌とは人々が順番に「5・7・5」(発句)と、「7・7」(付け句)をつなげていく集団文芸です。
貴族の遊びなのでテーマは季節の情緒や恋など風流なものでしたが、庶民は面白さや滑稽味が高い俳諧連歌を好みました。
江戸時代、松尾芭蕉は発句の部分を独立させて文学にまで昇華し、明治時代に正岡子規によって「俳句」と名付けられました。

それでは俳句のルールをおさらいしてみましょう。

  • 基本5(上の句)・7(中の句)・5(下の句)の17音。字余りや字足らずもある
  • 季語を一つ入れる
  • 句切れのときに「や」「かな」「けり」「なり」などの切れ字を入れて感動を強める

2.芭蕉の青年時代

松尾芭蕉というと、旅をしながら有名な俳句を作ったご老人、というイメージですが、実際に亡くなったのは数えで51歳のときです。
どんな青年時代を過ごしたのでしょうか。

芭蕉こと宗房は寛永21年(1644年)伊賀国上野(三重県)の農民の家系である松尾家の次男として生まれました。
13歳で父が亡くなり、19歳になると藤堂藩の良忠に近臣として仕え、良忠とその師から俳諧を学びました。

23歳で良忠が亡くなると思慕の念から一層のめり込み、やがて伊賀の俳壇で若手の代表格の地位を確立しました。
そして29歳のときに俳諧師として生きることを決め、翌年江戸に移住したのです。

3.芭蕉と旅

竹林
江戸の俳壇でも芭蕉は頭角をあらわし、財政的にも裕福な弟子に恵まれて安定しました。
そして、己の地位を確固たるものとして34歳で俳諧宗匠として独立します。

37歳の時に俳諧の中心地日本橋を離れ、深川に移りました。
深川に隠棲生活し芭蕉は一層純粋に俳諧と向き合いましたが、江戸の大火で家を失い、命からがら助かるという大変な思いをしました。
また、この頃禅を学んでおり、作風も蕉風と呼ばれる独自の世界を切り開いていきました。

そして40歳で故郷の母が亡くなると木曽や奈良、京都を巡りながら帰郷しました。
これ以降芭蕉は人生を旅そのものととらえ、旅に生き、5つの紀行文を残します。
なかでも、5か月間関東、東北、北陸をめぐり、亡くなるまでの5年間推敲を重ねた「おくの細道」は紀行文学の最高傑作といわれています。

蕉風とは [大辞林 第三版より引用]
松尾芭蕉およびその門流の信奉する俳風。美的理念としては幽玄・閑寂を重んじ、さび・しおり・細み・かるみを尊ぶ。正風。

4.芭蕉の俳句

それでは芭蕉の有名な俳句を四季ごとに一つずつ見てみましょう。

[古池や 蛙飛びこむ 水の音]
季語:蛙・春。芭蕉の作品で最も有名ともいわれ、この句で蕉風俳諧を確立したとされています。
[夏草や 兵どもが 夢のあと ]
季語:夏草・夏。岩手県平泉で奥州藤原氏の儚い栄華を詠んだ句で「おくの細道」に収録されています。
[秋深き 隣は何を する人ぞ]
季語:秋深し・秋。病で句会を欠席する際に送った句で、亡くなる少し前に詠まれました。
[旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る]
季語:枯野・冬。旅先の大坂で病に倒れてもなお、旅と俳諧への強い思いを詠んだ辞世の句です。

いかがですか?どれも聞いたことのある句ではないでしょうか。300年以上前に詠まれた句ですが、その場の情景がありありと思い浮かぶ名句ばかり。
詠み手である芭蕉の思いも私たちの胸を打ちますね。

5.俳句の楽しみ

俳句というとなんとなく敷居が高く感じられるかも知れませんが、あれこれ推敲したり、声に出して独特のリズムを感じたり、仲間と詠みあったりと幾通りにも楽しむことができます。

何気ない一日も、俳句に残せば特別な日になり、のちに生き生きとその情景を思い出すことができますので、日記感覚で作るとよいかも知れません。
たった17音に人生観や日本語の美しさがぎっしり詰まった、魅力的な俳句の世界にあなたも触れてみませんか。

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