鴨長明の方丈記|無常観とは?内容解説|原文と現代語訳

鎌倉時代の初期、1212年に鴨長明(かものちょうめい)が書いたのが、方丈記(ほうじょうき)です。
方丈記といえば、冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」という文章が有名で、教科書などで学んだ記憶がある方も多いと思います。

今回は、そんな日本人にとって馴染みの深い方丈記についてご紹介したいと思います。


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方丈記とは

方丈記は、清少納言の「枕草子」、兼好法師の「徒然草」と並んで日本の三大随筆とされています。
随筆とは、自分の考えや見聞きした事などをありのままに書いた文章の事です。

方丈記も、鴨長明の暮らしの中での出来事や考えなどが書かれています。
四百字詰め原稿用紙にすると二十枚と少しくらいの文量なので、他の古典文学作品に比べると短いといえます。

この方丈記が書かれたのは、およそ800年前、1212年頃とされています。
鴨長明は執筆時58歳でした。

方丈記は、日本人の無常観を表した作品といわれています。
無常観とは、世の全てのものは常に移り変わり、いつまでも同じものは無いという思想の事です。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と棲(すみか)と、又かくの如し。

現代語訳

流れる川の流れは絶え間ないが、しかし、その水はもとの水ではない。
よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じ、そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。
世の中の人と住まいも、これと同じなのだ。

方丈記のこの冒頭の文章も、まさに無常観を表した名文といえます。

無常の概念が広まったのは、末法思想浄土信仰が関係しています。
末法思想とは、釈迦の入滅後にその教えが徐々に忘れられ、やがて廃れる時代がやってくるという考えのこと。
日本では1052(永承7)年が入末法の年にあたると信じられていました。
末法の世では災いが起こるといわれており、この思想が人々に厭世観や無常観をもたらしました。
そのため極楽への往生を祈り、阿弥陀如来に救いを求める浄土信仰が発展したのです。

鴨長明が生きたのは、まさに動乱の時代でした。
貴族が保元の乱や平治の乱によって衰退し、武家勢力が台頭。
平氏が政権に就くものの、源平争乱の末に源氏による鎌倉幕府が誕生します。
世の中の価値観が一変し、誰もが無常観を感じている時代だったのです。

【方丈記の構成】
第一段 無常の根源を追求する
第二段 5つの災厄の詳細
第三段 環境と人との関係
第四段 出家遁世の経緯
第五段 方丈庵の間取り、周辺の景色
第六段 方丈庵での生活
第七段 人生訓

鴨長明の生涯

鴨長明は、1155年(久寿2年)に生まれたというのが通説になっています。
下鴨神社の正禰宜の次男として生まれ、比較的恵まれた環境で育っていました。

しかし、長明が18歳の時に父が急死してしまいます。
母も既に亡くなっていた為、長明は”みなしご”として生きていく事になります。

その後の長明は相続争いに敗れるなど、不遇が続きます。
父方の祖母の家を継ぐ立場で妻子が居た事もあったようですが、30歳頃に離別。
それからはずっと一人で暮らしていました。

そんな長明が生きがいとしていたのは、音楽と和歌でした。
若い頃より中原有安に琵琶を学び、和歌は俊恵に師事して才能を磨きます。

歌合への参加、千載和歌集への採用など、徐々に長明の和歌は評価されていきました。
47歳の時には後鳥羽院に才能を認められ、和歌所の寄人に抜擢されます。
しかし、後鳥羽院が厚意で長明の父の跡を継がせようと図ったところ、親族に邪魔されてしまいます。

この出来事から間もなく、長明は出家します。
その後質素な方丈庵での暮らしをはじめ、方丈記の執筆に繋がっていったのです。

【方丈庵】
鴨長明が終の棲家としたのが、方丈庵です。
とても小さな庵で、一辺が一丈(約三メートル)の方形だったことから”方丈”と名付けました。
この方丈庵で執筆したことが、”方丈記”の由来となっています。

災害文学として

東日本大震災が起きた時、方丈記に再び注目が集まりました。
それは、方丈記が当時の災害を細かく描写した災害ルポルタージュとしての側面も持っていたからです。

政治的な騒乱だけではなく、鴨長明が生きた時代は地震などの災害も襲っていました。
方丈記の中でも、下記の5つの災厄が描かれています。

【鴨長明が経験した5つの災厄】
・安元の大火
・治承の辻風
・福原遷都
・養和の飢饉
・元暦の大地震

この中で、方丈記に書かれている地震の描写をご紹介します。

山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。
渚漕ぐ舟は浪にただよひ、道ゆく馬は足の立(たち)どをまどはせり。
都のほとりには、在々所々、堂舍廟塔(だうじやたふめう)一つとして全からず。
或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ちのぼりて、盛(さかり)なる煙のごとし。

地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)にことならず。
家の中に居れば忽(たちまち)にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ割く。

羽なければ空をも飛ぶべからず。
龍ならばや雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとぞ覚え侍(はべ)りしか。

現代語訳

都の周りではあちこちの寺のお堂や塔が崩壊して、無事なものは一つもない。
あるものは崩れ、あるものは倒れた。塵や灰が舞い上がって煙が立ち上っているようである。

大地が鳴り響き、家々がバリバリと崩壊していく音は、雷鳴が轟くゆな凄まじさだ。
家の中にいれば押しつぶされそうになり、外へ逃げれば地面が割れ逃げ道をふさがれる。

羽がないので空を飛ぶこともできない。
龍であれば雲に乗って逃げることも出来るのに。恐ろしいものの中でも、もっとも恐ろしいのは、他でもない地震であったとつくづく思った。

大地震の様子、恐ろしさが伝わる文章です。
地震の後の余震についても、鴨長明は詳細に記録しています。

かくおびただしく震(ふ)る事は、しばしにて止みにしかども、そのなごりしばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度震らぬ日はなし。
十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

当時、このように日々の出来事をしっかりと記録する人はほとんどおらず、また居たとしても後世まで残っていない為、方丈記のこの記録は科学的な価値としても高いものなのです。

そして地震が起きてから時間が経った後の人々について、鴨長明はこう記しています。

原文

人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。

現代語訳

人は皆、やるせない世の中を嘆いていくらかは煩悩も薄らぐようにも見えたが、地震から月日が経ち時が過ぎると、もう言葉にして口にする人さえいない。

また、鴨長明は安元の大火の記述の後、都会に居を構える事の愚かさを説いています。

原文

人の営み皆愚かなるなかに、さしもあやうき京中の家を作るとて、宝を費やし心をなやます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。

現代語訳

災いの多い京中に大金をかけて住まいを作って、その為にいらぬ心配に神経をすり減らす、これほど馬鹿馬鹿しいことはない。だから私はそういうものに対していっさい価値を置かない。

人生訓

方丈記には、鴨長明による人生訓も記されています。
質素な暮らしと健康法について、下記のように語っています。

原文

いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養性なるべし。
なんぞいたづらに休みをらん。人を悩ます罪業なり。いかゞ他の力を借るべき。
衣食のたぐひ、またおなじ。

また藤の衣、麻のふすま、得るにしたがひて肌を隠し、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を恥づる悔いもなし。

現代語訳

体を動かし、歩く事は健康的である。
静かに休んでいるのは不健康だ。
着るものなどは手に入るなりに適当にすればいいのだし、食べるものも手に入ったなりに食べていけばいい。

粗衣粗食の生活は一見みすぼらしいが、町中で人に会う訳でもないので、恥ずかしい事もない。

また、人間の住む場所や、社会で生きていく難しさについても下記のような言葉を残しています。

原文

もし、己が身数ならずして、権門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。
嘆き切なる時も、声をあげて泣くことなし。進退やすからず、立居につけて恐れをののくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。
もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢてへつらひつら出で入る。
妻子、僮僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。

もし狭き地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝことなし。もし辺地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。

また、勢いあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人に軽めらる。財(たから)あればおそれ多く、貧しければうらみ切なり。

人を頼めば身他の有なり。人をはぐくめば心恩愛につかはる。
世にしたがへば身くるし。したがはねば狂せるに似たり。

いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、玉ゆらも心をやすむべき。

現代語訳

身分が低ければ権力者の前で小さくなっていなければならず、貧乏であれば裕福な隣人と顔を合わせる度に恥ずかしい思いをせねばならない。

人家の密集地に住めば火事の類縁をまぬがれず、僻地に住めば交通の便が悪く、盗難の心配もある。

出世する程心は貪欲になっていき、かといって独身だと軽く見られる。
財産があれば心配になり、貧しければ恨みがましくなる。

誰かを頼りにすると自分は失われ、その者に支配されることになる。誰かの面倒をみると愛情にしばられる。
世の中の常識に従えば窮屈だが、従わないと狂人と同じに映る。

結局、この世には心休まるところはどこにもない。
どんな仕事をして、どのように生きても、ほんの一瞬もこの社会では心安らかに暮らす事が出来ない。

原文

かなむは小さき貝を好む。
これ事知れるによりてなり。みさごは荒磯にいる。すなはち人を恐るるがゆえなり。我またかくのごとし。

事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず、ただ静かなるを望みとし、憂へ無きを楽しみとす。

現代語訳

ヤドカリは身の丈に合った小さな貝を好む。
みさごは人を避け、荒磯に住む。私も同じだ。

人間社会というのは得体の知れない恐ろしいところだから、出来るだけ遠ざかろうと考えた。
ただ静かに暮らす事だけを望んで、憂いのない生活を楽しみとしている。

まとめ

質素な住まいで、必要最低限の物しか持たずに暮らした鴨長明。
孤独で寂しい暮らしにも見えますが、晩年の長明は心豊かに暮らしていたようです。

長明の庵の近くには山を守る番人の小屋があり、そこに男の子も居ました。
この男の子は長明になついており、2人でよく遊んでいました。

かれは十歳、これは六十。その齢ことのほかなれど、心をなぐさむること、これ同じ。或は茅花(つばな)を抜き、岩梨(いわなし)を採り、零余子(ぬかご)を盛り、芹を摘む。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて穂組をつくる。

鴨長明は、方丈記を執筆した4年後の62歳で亡くなります。
激動の時代を生きながらも、鴨長明は現代まで通じる多くの言葉を残したのです。


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