奥の細道(おくのほそみち)は1702年に書かれた紀行・俳諧文学です。
作者は松尾芭蕉(まつおばしょう)。
数々の名作俳句を残した事でも知られています。
今回はそんな高校古典の教科書にも出てくる奥の細道の中から「平泉(ひらいずみ)」について詳しく解説していきます。
奥の細道「平泉」の解説
奥の細道でも有名な、「平泉」について解説していきます。
奥の細道「平泉」の原文
三代の栄耀一睡の中にして、 大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。
まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。
衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。
さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし(*)侍りぬ。
卯の花に兼房見ゆる白毛かな
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。
経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。
七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぎ、しばらく千歳の記念とはなれり。
奥の細道「平泉」の現代語訳
藤原氏三代の栄華も一睡の夢のように消え去って、南大門の跡は一里ほど手前にある。
秀衡の(館の)跡は田野になって、金鶏山だけが昔の姿をとどめている。
まず(義経がいた館跡の)高館に登ると、北上川(が見えるが、この川は)、南部地方から流れてくる大河である。
衣川は和泉が城を巡って、この高館の下で北上川に流れ込んでいる。
泰衡らの旧居は、衣が関を隔てて南部(領から平泉への入り)口を堅く守り、(北方の)蝦夷の侵入を防いだものと思われる。
それにしても、(義経が)忠義の家臣たちをよりすぐってこの(高館の)城にたてこもり、功名を立てたのも一時のことで、今は一面の草むらとなっている。
と(いう杜甫の詩を思い出し)、笠を敷いて(腰を下ろし)、いつまでも涙を流しました。
白い卯の花を見ていると、白髮を振り乱して奮戦する兼房の姿が目にうかぶようだ。
以前から噂に聞いて驚いていた(中尊寺の経堂と光堂の)二堂が開帳されていた。
経堂は三代の将軍の木像を残し、光堂には三代の棺を納め、三尊の像を安置している。
七宝も散逸し、珠玉を散りばめた扉も風のために破損し、金箔を貼った柱も霜や雪に朽ちて、もう少しで崩壊し、何もない草むらとなるはずであったのだが、(堂の)四方を新しく囲んで、屋根瓦で覆って風雨を防ぎ、しばらくの間は遠い昔をしのぶ記念物となっている。
奥の細道「平泉」の単語・語句解説
一睡の夢のように消え去って。
[こなた]
こちらの方。
[秀衡が跡]
秀衡の館の跡。
[夷]
蝦夷(えぞ)のこと。北海道・東北に住み、朝廷に従わなかった人々。
[義臣すぐつて]
忠義の臣をよりすぐって。
[時の移るまで]
かなり時間がたつまで。
[珠の扉]
宝玉をちりばめた扉。
[既に]
もう少しで。
*「平泉」でテストによく出る問題
○問題:「涙を落とし(*)」たのは何故か。
答え:藤原氏の栄華も一睡の夢であり、義経主従の奮戦もはかない夢のようなものだと、生い茂る夏草を見て感じたから。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は奥の細道でも有名な、「平泉(ひらいずみ)」についてご紹介しました。
その他については下記の関連記事をご覧下さい。
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