高市黒人(たけちのくろひと)
いづくにか船泊てすらむ安礼の崎
漕ぎ廻み行きし棚なし小舟
(巻一・五八)
【読み】
いづくにかふなはてすらむあれのさき
こぎたみゆきしたななしをぶね
【意味】
今頃どの辺りで停泊しているのだろうか、安礼の崎を漕ぎ巡って行ったあの棚なし小舟は。
【解説】
道中で見かけた小舟を思いやった歌。
阿倍女郎(あべのいらつめ)
吾が背子が着せる衣の針目落ちず
こもりにけらし我が心さへ
(巻四・五一四)
【読み】
わがせこがけせるころものはりめおちず
こもりにけらしあがこころさへ
【意味】
あなたの着ていらっしゃる衣の針目の一つ一つに縫い込んで入ってしまったようです。
縫い糸だけでなく、私の心まで。
志貴皇子(しきのみこ)
采女の袖吹き返す明日香風
京を遠みいたづらに吹く
(巻一・五一)
【読み】
うねめのそでふきかえすあすかかぜ
みやこをとほみいたづらにふく
【意味】
采女たちの袖を吹きひるがえす明日香の風は、いまや都が遠のいたので、ただむなしく吹いていることよ。
【題詞】
明日香宮より藤原宮に遷居りし後に、志貴皇子の作らす歌
葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて
寒き夕は大和し思ほゆ
(巻一・六四)
【読み】
あしへゆくかものはがひに しもおりて
さむきゆうへはやまとしおもほゆ
【意味】
葦辺を泳ぎ行く鴨の翼に霜が降りて、寒さが身にしみる晩には、郷里の大和が思われてならない。
【題詞】
慶雲三年丙午、難波宮に幸せる時に、志貴皇子の作らす歌
石走る垂水の上のさわらびの
萌え出づる春になりにけるかも
(巻八・一四一八)
【読み】
いはばしるたるみのうへのさわらびの
もえいづるはるになりにけるかも
【意味】
岩の上をほとばしり流れる滝のほとりのさわらびが、萌え出る春になったことよ。
元明天皇(げんめいてんのう)
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば
君があたりは見えずかもあらむ
(巻一・七八)
【読み】
とぶとりのあすかのさとをおきていなば
きみがあたりはみえずかもあらむ
【意味】
(飛ぶ鳥の)明日香の古京を後にして行ってしまったなら、あなたのいる辺りは見えなくなってしまうのではないか。
【題詞】
和銅三年庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、古郷を廻望みて作らす歌
長田王(ながたのおおきみ)
うらさぶる心さまねしひさかたの
天のしぐれの流れあふ見れば
(巻一・八二)
【読み】
うらさぶるこころさまねしひさかたの
あまのしぐれのながれあふみれば
【意味】
うら淋しい思いが胸にいっぱいだ。(ひさかたの)天からの時雨が流れるように降り続くのを見ると。
【題詞】
和銅五年壬子の夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌(一首抄出)
山部赤人(やまべのあかひと)
春の野にすみれ摘みにと来し我そ
野をなつかしみ一夜寝にける
(巻八・一四二四)
【読み】
はるののにすみれつみにとこしわれそ
のをなつかしみひとよねにける
【意味】
春の野にすみれを摘もうと思ってやってきた私は、野に心ひかれて、そこで一夜寝てしまったことだ。
【解説】
山部赤人(やまべのあかひと)は元正・聖武天皇に仕えた宮廷歌人です。
大伴旅人(おおとものたびと)
愛しき人のまきてししきたへの
我が手枕をまく人あらめや
(巻三・四三八)
【読み】
うつくしきひとのまきてししきたへの
あがたまくらをまくひとあらめや
【意味】
いとしい我が妻が枕にして寝た(しきたへの)わたしの腕枕を、再び枕にする人があろうか。
いや、もうけっしていはしないのだ。
【題詞】
神亀五年戊辰、太宰帥大伴卿、故人を思ひ恋ふる歌三首(一首抄出)
湯原王(ゆはらのおおきみ)
吉野なる夏実の川の川淀に
鴨そ鳴くなる山陰にして
(巻三・三七五)
【読み】
よしのなるなつみのかはのかはよどに
かもそなくなるやまかげにして
【意味】
吉野の夏実の川の流れのゆるやかなところで、鴨が鳴いているのが聞こえる。あの山の影に隠れて。
【解説】
湯原王は天智天皇の孫にあたり、志貴皇子の子です。
秋萩の散りのまがひに呼び立てて
鳴くなる鹿の声の遥けさ
(巻八・一五五〇)
【読み】
あきはぎのちりのまがひによびたてて
なくなるしかのこえのはるけさ
【意味】
秋萩が華やかに散り乱れている辺りで、妻を呼び立てて鳴く鹿の声の、なんと遥かなことよ。
夕月夜心もしのに白露の
置くこの庭にこほろぎ鳴くも
(巻八・一五五二)
【読み】
ゆふづくよこころもしのにしらつゆの
おくこのにはにこほろぎなくも
【意味】
月のある夕べ、胸がせつなくなるほどに、白露に濡れたこの庭に、こおろぎが鳴いていることよ。
狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)
君が行く道の長手を繰り畳ね
焼き滅ぼさむ天の火もがも
(巻一五・三七二四)
【読み】
きみがゆくみちのながてをくりたたね
やきほろぼさむあめのひもがも
【意味】
あなたの行く長い道のりを手繰り寄せ畳んで、焼き滅ぼして行けないようにしてくれる天の災火が欲しい。
【題詞】
中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子とが贈答せる歌
命あらば逢ふこともあらむ我が故に
はだな思ひそ命だに経ば
(巻一五・三七四五)
【読み】
いのちあらばあふこともあらむわがゆえに
はだなおもひそいのちだにへば
【意味】
命さえあれば、また逢うこともありましょう。私のためにひどく心を痛めないでください。命だけでも無事でさえあったら。
防人(さきもり)
我が妻はいたく恋ひらし飲む水に
影さへ見えてよに忘られず
(巻二十・四三二二)
【読み】
わがつまはいたくこひらしのむみづに
かごさへみえてよにわすられず
【意味】
わたしの妻はひどく私を恋しがっているらしい。飲む水に影まで映って現れ、まったく忘れられない。
【解説】
防人とは、北九州を中心とする沿岸警備の為に東国諸国から徴発された兵士のこと。
大伴家持(おおとものやかもち)
春の苑紅にほふ桃の花
下照る道に出で立つ娘子
(巻十九・四一三九)
【読み】
はるのそのくれないにほふもものはな
したでるみちにいでたつをとめ
【意味】
春の園が紅色に輝いている。桃の花が下を照らす道にたたずむ乙女よ。
【題詞】
天平勝宝二年三月一日の暮に、春苑の桃李の花を眺矚して作る二首
【解説】
大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人の嫡男。
万葉集の17〜20巻は大伴家持による歌日記であるとも言われる通り、家持の歌は万葉集に479首も収めらています。
これは万葉集全体の1割を占める程。
朝床に聞けば遥けし射水川
朝漕ぎしつつ唱ふ舟人
(巻十九・四一五〇)
【読み】
あさとこにきけばはるけしいみづかは
あさこぎしつつうたふふなびと
【意味】
朝の寝床で聞けば、遥かに遠い。射水川で朝、舟を漕ぎながら歌う船頭の声は。
【題詞】
江をさかのぼる舟人の唱を遥かに聞く歌一首
【解説】
天平17年(745年)に27歳で越中の守に任命された家持が、越中で詠んだ歌です。
春の野に霞たなびきうら悲し
この夕影にうぐいす鳴くも
(巻十九・四二九〇)
【読み】
はるののにかすみたなびきうらがなし
このゆふかげにうぐいすなくも
【意味】
春の野に霞がたなびいて、もの悲しい。この夕暮れの光の中で、うぐいすが鳴いているよ。
我がやどのいささ群竹吹く風の
音のかそけきこの夕かも
(巻十九・四二九一)
【読み】
わがやどのいささむらたけふくかぜの
おとのかそけきこのゆふへかも
【意味】
わが家のわずかばかりの竹林に、吹く風の音がかすかに聞こえてくるこの夕べよ。
うらうらに照れる春日にひばり上がり
心悲しもひとりし思へば
(巻十九・四二九二)
【読み】
うらうらにてれるはるひにひばりあがり
こころがなしもひとりしおもへば
【意味】
うららかに照っている春の日にひばりが舞い上がり、心は悲しいことだ。独りもの思っていると。
新しき年の初めの初春の
今日降る雪のいやしけ吉事
(巻二十・四五一六)
【読み】
あらたしきとしのはじめのはつはるの
けふふるゆきのいやしけよごと
【意味】
新たな年の初めの新春の今日降る雪のように、ますます積もり重なれ、喜ばしいことが。
【題詞】
三年春正月一日に、因幡国の庁にして饗を国群の司等に賜ふ宴の歌一首
【解説】
万葉集最後の歌が、この家持の歌です。
天平宝字2年に因幡守だった家持が正月の宴の席に詠んだ歌です。
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いかがでしたでしょうか。
美しい日本語の歌が集められた歌集、万葉集。
是非お気に入りの歌を見つけて楽しんで下さいね。
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