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井伏鱒二の生涯と作品年表|ユーモアとペーソスの作家

原稿用紙の画像|四季の美
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「山椒魚」や「屋根の上のサワン」など数々の名作文学を残した作家、井伏鱒二。
今回は井伏鱒二の生涯と作品についてご紹介します。

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井伏鱒二の誕生

井伏鱒二は明治31年(1898年)2月15日、現在の広島県福山市加茂町に生まれました。
代々地主の家系である父郁太と母ミヤの次男で、本名は井伏満寿二(いぶしますじ)と名付けられています。

一緒に暮らしていた祖父母からよく昔話をしてもらい、鱒二もそれを楽しみにしていました。

鱒二が4歳の時、叔母が亡くなってしまいます。
翌年には1歳だった弟、父、子守など身近な所で不幸が重なりました。
まだ子どもとはいえ、この一連の出来事は幼い心に暗い影を落とします。

中村光夫は「井伏鱒二論」の中で

「氏の作品の底にはいつも死を見詰める眼が光っています」

とも評しています。

幼くして父を亡くした鱒二を祖父は不憫に思い、兄弟の中でも特に可愛がりました。
骨董好きの祖父の影響を受け、鱒二も興味を持っていく事になります。

小学校では釣りに熱中するなど活発に過ごした鱒二。
そして名門である福山中学校に進学すると寄宿舎に入ることになり、厳しい校則に縛られた生活を送りました。
この頃鱒二は森鴎外宛てに老人のふりをして反駁文を送り、返信を貰う事に成功しています。

学生生活と失恋

中学を卒業すると絵の道具を持って写生旅行に出掛け、そのスケッチを橋本関雪に送り入門を望みましたが断られてしまいます。
その後兄の勧めもあり早稲田大学予科1年に編入。

ここで鱒二は初めての失恋を経験し、1ヶ月程学校を休んで木曾へ旅行へ行きます。
この旅以来、旅行好きになった鱒二は様々な所へ旅に出るようになりました。

この頃には文学の道を志していた鱒二を支えたのは、親友の青木南八でした。
「いずれ文壇に出る」と励まし、鱒二もこれを支えに作品を書いていきます。

その後同人雑誌「世紀」に参加し、「幽閉」を発表。
後に鱒二を師と仰ぐ事になる、当時中学1年だった太宰治はこれを読み大きな感動を受けています。

大正12年、鱒二は教授との軋轢から瀬戸内海の因島(いんのしま)で孤独な寄宿生活を送っていました。
ここでは酒を覚えて以前と生活が一変します。
半年程経って復学の手続きをしますが、また教授の反発にあって結局早稲田大学を中退することに。
この頃親友の青木南八も亡くしています。

文学の道へ

「夜更けと梅の花」「寒山拾得」などを執筆していった鱒二でしたが、大正12年9月1日に関東大震災が起こります。
鱒二も家を飛び出し野球場で一夜を明かし、故郷へ戻りました。

しかしこれによって文学の道を諦めることはせず、1ヶ月後に再び上京。
友人の紹介状を持って田中貢太郎の元を訪ねます。
酒を酌み交わし親交を深め、後に故事熟語の由来を書く仕事を任される事になりました。

そしてまた友人の後押しによって聚芳閣という出版社に勤めることになります。
聚芳閣では翻訳記事の執筆などを行いますが編集の仕事が全く向いておらず、3度も入退社を繰り返しました。

結局退社することになりましたが、親友の青木南八への想いを一匹の鯉に託した「鯉」という作品が雑誌「桂月」、「三田文学」に発表されていくと本格的に作家としての道を歩み始めます。

その後田中貢太郎の紹介で佐藤春夫の元を「鯉」の原稿を持って訪ね、以後親交を深めていくことになります。

昭和2年に「不同調」の新人号に「歪なる図案」を発表。

この年、鱒二は下宿の近くに住んでいた秋元節代と出会い、結婚します。
荻窪に質素な新居を構え、その後生涯この家に住み続けました。

戦争と徴用

昭和3年には「山椒魚」「なつかしき現実」などを続けて発表。
昭和5年になると「新興芸術倶楽部」の創立総会が開かれ、鱒二もこれに加わります。
そして最初の作品集「夜更けと梅の花」が新潮社より刊行されました。

昭和13年には「ジョン萬次郎漂流記」で第6回直木賞を受賞し、文壇での地位を確立していきます。
しかし昭和16年になると陸軍徴用の知らせが届き、船で南方に連れて行かれました。
シンガポールで英字新聞の発行や日本学園での講義などを1年後の徴用解除までこなします。

文壇の重鎮として

昭和18年には直木賞の選考委員となり、以後昭和32年まで務め続ける事になります。
昭和23年には目をかけていた太宰治が自殺するなどの悲劇もありながら、終戦後も「経筒」「二つの話」など創作に励み続けます。

そして「本日休診」その他によって第一回読売文学賞を受賞。
昭和31年には「漂民字三郎」で日本芸術院賞を受賞します。

昭和33年からは芥川龍之介の選考委員となり、2年後には日本芸術院会員となります。

昭和31年には戦争の悲劇を描いた「黒い雨」で野間文学賞を受賞、この年に文化勲章も受賞します。
以降は「風貌・姿勢」「釣人」などの随筆にも力を入れていき、「早稲田の森」で読売文学賞を受賞。
そして晩年には「井伏鱒二自選全集」を刊行し、平成5年7月10日、95歳の生涯を終えたのです。

井伏鱒二のおすすめ作品とあらすじ

この章では井伏鱒二の主な有名作品とあらすじを一覧でまとめてご紹介します。

山椒魚


【内容あらすじ】
岩屋の中に棲んでいるうちに体が大きくなり、外へ出られなくなった山椒魚の狼狽、かなしみのさまをユーモラスに描く処女作。

厄除け詩集


【内容あらすじ】
4部構成の『厄除け詩集』。
そこはかとなきおかしみに幽愁を秘めた「なだれ」「寒夜母を思ふ」等の初期詩篇。
“ハナニアラシノタトヘモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生ダ”の名訳で知られる「勧酒」、「復愁」「田舎春望」等闊達自在、有情に充ちた漢詩訳。
深遠な詩魂溢れる「黒い蝶」等、魅了してやまぬ井伏鱒二の詩精神。

駅前旅館


【内容あらすじ】
昭和30年代初頭、東京は上野駅前の団体旅館。子供のころから女中部屋で寝起きし、長じて番頭に納まった主人公が語る宿屋稼業の舞台裏。業界の符牒に始まり、お国による客の性質の違い、呼込みの手練手管……。美人おかみの飲み屋に集まる番頭仲間の奇妙な生態や、修学旅行の学生らが巻き起こす珍騒動を交えつつ、時代の波に飲み込まれていく老舗旅館の番頭たちの哀歓を描いた傑作ユーモア小説。

黒い雨


【内容あらすじ】
一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨のなかを人々はさまよい歩く。
原爆の広島――罪なき市民が負わねばならなかった未曾有の惨事を直視し、“黒い雨”にうたれただけで原爆病に蝕まれてゆく姪との忍苦と不安の日常を、無言のいたわりで包みながら、悲劇の実相を人間性の問題として鮮やかに描く。
被爆という世紀の体験を、日常の暮らしの中に文学として定着させた記念碑的名作。

作品年表

西暦 作品名
1930 夜ふけと梅の花(朽助のゐる谷間/山椒魚/屋根の上のサワン/鯉など)、なつかしき現実
1931 仕事部屋
1932
1933 随筆
1934 田園記、逃亡記
1935 頓生菩提
1936 肩車、自叙伝 雞肋集、静夜思
1937 集金旅行、厄除け詩集、ジョン萬次郎漂流記 風来漂民奇譚、山川草木
1938 火木土、さざなみ軍記、陋巷の唄
1939 川と谷間、禁札 小説集、蛍合戦、オロシヤ船、多甚古村・駐在日誌
1940 鸚鵡、丹下氏邸 他四篇、風俗 随筆集
1941 シグレ島叙景、おこまさん
1942 星空
1943 花の町
1944 御神火
1945
1946 侘助、仲秋明月、追剥の話、風貌姿勢 随筆、まげもの
1947
1948 シビレ池のかも、貸間あり、詩と随筆、引越やつれ
1949 試験監督
1950 掘り出しもの、本日休診
1951 川釣り、かきつばた
1952 吉凶うらなひ、乗合自動車
1953 点滴 随筆集
1954 黒い壺
1955 在所言葉、ななかまど、白鳥の歌
1956 漂民宇三郎、源太が手紙
1957 駅前旅館、還暦の鯉、七つの街道
1958 河鹿
1959 木靴の山、珍品堂主人
1960 釣師・釣場
1961 昨日の会、取材旅行
1962
1963 武州鉢形城、無心状
1964
1965
1966 黒い雨、くるみが丘、場面の効果
1967 風貌・姿勢
1968
1969
1970 釣人
1971 早稲田の森
1972 人と人影
1973
1974 小黒坂の猪、天井裏の隠匿物
1975
1976
1977 軍歌「戦友」、スガレ追ひ
1981 海揚り
1982 荻窪風土記
1983
1984
1985 焼物雑記
1986 岳麓点描、鞆ノ津茶会記
1987
1988
1989 太宰治
1990 鶏肋集・半生記、晩春の旅・山の宿、二人の話 巻子本
1991 文士の風貌
1992 たらちね、白鳥の歌・貝の音
1993 点滴・釣鐘の音
1994
1995 神屋宗湛の残した日記
1996 徴用中のこと
1997 文人の流儀
1998
1999 かるさん屋敷
2004 井伏鱒二全詩集

まとめ

いかがでしたでしょうか。
今回は井伏鱒二の生涯と作品についてご紹介しました。

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