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夏目漱石の生涯と作品年表|近代文学を代表する作家

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夏目漱石といえば、日本を代表する国民的作家です。
代表作の「坊っちゃん」は1906年に発表されて以来多くの人々に親しまれてきました。

今回はそんな夏目漱石の生涯と作品についてご紹介します。

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夏目漱石の誕生

夏目漱石(本名:金之助)は慶応3年(1867年)1月5日、江戸牛込馬場下横町に生まれました。
5男3女の末っ子で、この時既に父は50歳で母は41歳という比較的高齢での出産でした。

夏目家は代々町名主を努めた家柄であり豊かな暮らしを送っていましたが、漱石は誕生後まもなく里子に出されます
しかしその家も貧しかったこともありすぐに生家に戻りますが、翌年には塩原昌之助・やす夫婦の養子となります。

養子となり名字も塩原となった漱石でしたが、養父母の離婚もあり再び夏目家へ戻ります。
しかし戸籍上では21歳まで塩原姓を変える事が出来ず、様々な場面で苦労を重ねることに。
この苦労は後の名作「草枕」にも描かれています。

夏目の学生時代

根を下ろす場所が無い不安定な幼少期を送った漱石。
錦華学校を卒業すると、府立一中に進みますが3年で退学して二松学舎へ移ります。
ここで漢文や漢書に親しみますが、英語を修めたいと成立学舎で1年間英語を勉強し、東京大学予備門へ進みます。
この時の同期は正岡子規や芳賀矢一、中村是公らも居ました。

明治19年に予備門の生徒は第一高等中学に編入されます。
この年の7月、漱石は腹膜炎が原因で落第してしまいます。

その後進路を考えていた漱石は建築家の道へ進む事を決めます。
自分を曲げずに、かつ世の中に受け入れられる職業として選んだものでした。

しかし同級生の米山保三郎にその事を話すと「日本ではセント・ボールズ大寺院のような建物はつくれないから、まだ文学の方が生命がある」と言われてその晩に文学者の道に進む事を決心します。

その後帝国大学を卒業し、大学院へ進学。
漱石は東京高等師範学校の英語教師となります。

英語教師として

そして明治28年、漱石は愛媛県尋常中学校の英語教師として赴任。
愛媛に居たのは1年程でしたが、この時の経験が「坊っちゃん」執筆へと繋がります。

翌年に熊本の第五高等学校講師となった漱石。
このころ貴族院書記官長である中根重一の娘、鏡子と結婚します。

鏡子の流産やヒステリーの発作らしい自殺未遂などの苦境もありましたが、明治32年に長女の筆子が誕生。
この時期の漱石は俳句をよく作っており、仲の良かった正岡子規にもよく俳句を送っています。

明治33年、漱石は文部省の第一回給費留学生として英語研究の為のイギリス留学を命じられます。
目的が英文研究ではなく英語研究だった事から1度は辞退を申し出ますが、校長からの説得もありイギリスへ出発します。

イギリス留学

イギリスへ向かう船にはドイツ文学の藤代禎輔と国文学の芳賀矢一もいました。
航海中の船酔いなどに苦しみながら、ようやくロンドンへ到着。
大英博物館近くの下宿に入ります。

そしてシェークスピア学者のクレイグ博士の個人授業を受け始めた漱石でしたが、次第に不安を持ち始めます。
英国人学者の説をそのまま祖述するのではなく、「文学とは何か」という大きな目線で研究するべきではないか。
この視点を得たことにより不安は軽快な心へと変わったと述懐しています。

しかしこのロンドン留学中の2年間は「尤も不愉快の二年」と振り返る程、漱石にとってはつらいものでした。
留学費が少なかった為に経費を削って工面したり、異国の地での不自由・孤独感は漱石を神経衰弱に追いやりました。
帰国の直前には親友の正岡子規の訃報も届くなど、辛い出来事が重なります。

文学の道へ

明治36年、漱石は日本へ帰国。
東京帝大英文科講師、第一高等学校嘱託として東京で暮らすことになった漱石でしたが、神経衰弱の再発に苦しみます。
そんな時に友人の高浜虚子が能楽鑑賞など外に連れ出し、共に連句の創作などをするようになります。
そして虚子が、正岡子規の生前から続く文章会「山会」への作品発表を漱石に促し、「吾輩は猫である」誕生に繋がっていきます。

「倫敦塔」「幻影の盾」「坊っちゃん」「草枕」など次々と執筆に励んでいった漱石は、

「命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。」

と鈴木三重吉宛の手紙に残す程、文学に対して熱意を持って取り組んでいきます。

そして明治40年、漱石は教職を辞めて朝日新聞社に入社。
小説の執筆が職業となる、職業作家としての道を進み始めたのです。

入社第一作目の「虞美人草」が評判となり、漱石の文名は更に高まっていきます。
その後も数々の作品を世に出し続けた漱石でしたが、明治43年に胃潰瘍が悪化し入院。

退院後も伊豆修善寺の菊屋旅館で療養を続けますが、容態が悪化し吐血。
一時は危篤の状態に陥りましたがなんとか持ち直し、東京に戻って再び入院。
病床から「思ひ出す事など」を発表します。

退院した漱石は長野や関西への講演旅行、夫人との信越旅行へと出掛けます。
しかしこの年は末娘であるひな子の急死や病気の再発など、苦しい出来事も起こりました。

明治44年末からは「彼岸過迄」の執筆に励み、その後も神経衰弱と戦いながら「塵労」「行人」「心」などを発表していきます。

そして最期の作品となる「明暗」が未完のまま、漱石は満49歳の若さで亡くなります。

夏目漱石の主な作品とあらすじ

この章では夏目漱石の主な有名作品とあらすじを一覧でまとめてご紹介します。

吾輩は猫である


【内容あらすじ】
「吾輩は猫である。名前はまだない…。」から始まるこの小説。苦沙弥先生の家に拾われた猫が見た人間社会の滑稽な姿をユーモラスに描く。

坊っちゃん


【内容あらすじ】
四国の中学に数学教師として赴任した“坊っちゃん”が、赴任先の学校教師や生徒と巻き起こす騒動を描いた大衆小説。
青年教師の痛快な反抗精神と勧善懲悪のストーリーが楽しいエンターテイメント大作。

こころ


【内容あらすじ】
「先生」が私に遺した遺書には、彼の過去が綴られていた。恋愛のために親友を裏切り、自殺へと追い込んだ罪の意識から、自らも死を選んだ男の生涯を描き、孤独な近代人の苦悩を超え、新しい時代に生きる決意を示した作品。

草枕


【内容あらすじ】
智に働けば角がたつ、情に棹させば流される―春の山路を登りつめた青年画家は、やがてとある温泉場で才気あふれる女、那美と出会う。俗塵を離れた山奥の桃源郷を舞台に、絢爛豊富な語彙と多彩な文章を駆使して絵画的感覚美の世界を描き、自然主義や西欧文学の現実主義への批判を込めて、その対極に位置する東洋趣味を高唱。

三四郎


【内容あらすじ】
熊本の高等学校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物の総てが目新しい世界の中で、自由気儘な都会の女性里見美禰子に出会い、彼女に強く惹かれてゆく……。

それから


【内容あらすじ】
長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく……。

小説作品年表

西暦 作品名
1905 吾輩は猫である、倫敦塔、幻影の盾、琴のそら音、一夜、薤露行
1906 坊っちゃん、草枕、二百十日、趣味の遺伝
1907 野分、虞美人草
1908 坑夫、三四郎、文鳥、夢十夜
1909 それから、永日小品
1910
1911
1912 彼岸過迄、行人
1913
1914 こゝろ
1915 道草
1916 明暗

まとめ

いかがでしたでしょうか。
今回は夏目漱石の生涯と作品についてご紹介しました。

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