芥川龍之介の生涯と作品年表|新現実主義の作家

芥川龍之介といえば、その繊細な完成で様々な名作を生み出した作家として知られています。
古典を題材に現代風に解釈した作品も多く、今なお多くの人々に親しまれています。

今回はそんな芥川龍之介の生涯と作品についてご紹介します。

芥川龍之介の誕生

芥川龍之介は明治25年3月1日、東京市京橋区入舟町に生まれました。
父は渋沢栄一が経営する牛乳販売業耕牧舎の支配人である新原敏三、そして母フクの長男として生まれた龍之介は、辰年辰月辰日の辰刻に誕生したことからその名が付けられます。

その時父は42歳、母は33歳という大厄の年だった為に、龍之介は旧来の迷信に従って形式上の”捨て子”にされます。
形だけのものでしたが、この出来事は龍之介の生涯に影響を与えました。

龍之介が生後8ヶ月の時、母のフクが突然発狂します。
その為伯父である芥川道章の家に引き取られた龍之介は、その家に同居していた伯母フキの手で育てられることになります。

芥川家は代々御奥坊主をつとめた家柄であり、家族全員が文学や美術を好んでいました。
小学校に入った龍之介も近所の貸本屋や図書館に入り浸り、様々な本を読み漁ります。
子供時代を後に振り返った龍之介は、特に好きだった本として「西遊記」と「水滸伝」を挙げています。

文学に親しむ学生時代

高等小学校に進級すると、同級生と回覧雑誌「日の出界」を始めます。
龍之介も小説を書き始め、自ら表紙絵も描いていました。

明治35年、生母のフクが亡くなるという悲しい出来事が起こります。

この頃から龍之介は英語と漢学を学び始めます。
そして明治37年、龍之介は正式に芥川家と養子縁組を行いました。
父の新原敏三も龍之介を育てたいという気持ちはあったものの、フクの妹フユとの間に子が出来ていた事などから養子縁組という方法を取ったのです。

中学校に入った龍之介は、また回覧雑誌を作ります。
夏目漱石の「吾輩は猫である」をもじった「吾輩も犬である」や、友人との旅行記などを書いていました。

第一高等学校に入学した龍之介。
同期には菊池寛や久米正雄など、のちに文筆で名を成す面々が揃っていました。
画廊での展覧会や音楽会に通う日々を送っていた龍之介は、外国文学も読み始めます。

東京帝国大学英文学科に入学すると、龍之介は第三次「新思潮」の同人として加わり、翻訳「バルタサアル」や小説「老年」などを発表していきます。
この頃の龍龍之介は実家である新原家の女中、吉村千代に恋心を抱いて手紙で想いを伝えますが叶いませんでした。
次に青山女学院出の吉田弥生という女性に恋をして結婚の意思表示までしますが、養家の反対にあって破局してしまいます。

作家の道へ

大正4年、帝国文学に「羅生門」を発表しますが、世間では全く話題になりませんでした。
しかしこの年の12月に久米正雄を夏目漱石の元を訪れ、これ以降木曜日の夜に開催される”木曜会”の常連メンバーとなります。

この出会いに創作意欲が高まった龍之介は、久米正雄、菊池寛、松岡譲、成瀬正一と共に第四次「新思潮」を創刊します。
創刊号に「鼻」を発表し、漱石からも賛辞を送られた龍之介は本格的に作家の道へ進み始めました。

東京帝国大学を卒業した龍之介は、文芸雑誌「新小説」から原稿依頼を受けて「芋粥」を書き始めます。
そして文壇の登竜門といわれた「中央公論」に「手巾」を発表。
新進作家としての道を歩み始めます。

そして一高時代の恩師の推薦で横須賀の海軍機関学校の英語教師として就職する事になりました。
間もなく師匠の夏目漱石が亡くなり、龍之介も葬儀に駆けつけ名簿作りなどを手伝います。

大正6年、阿蘭陀書房から第一創作集「羅生門」を刊行。
この本の出版記念会には同世代の新進作家らが集まりました。

専業作家として

この頃の龍之介には新聞や雑誌から原稿依頼が殺到し、第二創作集「煙草と悪魔」が刊行されるなど文壇での評価も高まっていきます。

大正7年、龍之介は塚本文と結婚します。
生活の安定を得る為に大阪毎日新聞社と社友契約を結び、「地獄変」の連載も開始します。
そして鈴木三重吉がはじめた雑誌「赤い鳥」創刊号に「蜘蛛の糸」を寄せてからは児童文学にも関心を持ち始めました。

大正8年、実父の敏三が亡くなります。
この年に龍之介は教師を辞め、正式に大阪毎日新聞社の社員になりました。
出勤する必要はなく、年に何回か小説を書くという契約でついに専業作家となったのです。

大正9年に長男が生まれる頃には龍之介は文壇の花形作家になっていました。
しかし常に創作に追われる生活は少しずつ龍之介を追い詰めていったのです。

神経衰弱

大正10年に神経衰弱の静養の為に湯河原へ行きますが、病状はよくなりません。
病と戦いながらも創作を続け、「藪の中」や「将軍」、「トロッコ」などを発表していきます。

大正11年、龍之介は小穴隆一と志賀直哉の元を訪れます
そして志賀直哉が3年ほど小説を書かなかった時の心境を知りたがったといいます。
創作に追われる龍之介とは違い、自由に仕事をしているように見えたのです。

次男が誕生したころ、龍之介の体調も悪化していきました。
神経衰弱や胃痙攣、腸カタルやピリン疹、心悸亢進などで小説を書ける状態ではなかったのです。
しかしこの時期6冊もの単行本を出すなど、外からみると順調に作家としての仕事を全うしていました。

大正14年、中央公論に「大導寺信輔の半生」を発表したころに三男が誕生します。
その後「近代日本文芸読本」全五集を刊行しますが、この頃印税問題でよからぬ噂が飛び、龍之介の心にもストレスを与えました。
翌年から神経衰弱も悪化。
幻覚も体験するようになって、更に不眠症に陥り睡眠薬を服用し始めます。

唯ぼんやりとした不安

昭和2年、龍之介の姉ヒサの夫の家が火事で半焼。
火災保険目的の放火を疑われた夫がその2日後に自殺するという事件が起こります。

この出来事は新聞でも「芥川龍之介の義兄の自殺」として報道され、龍之介も対応に追われます。
そんな中でも「蜃気楼」や「河童」などの創作に励む龍之介でしたが、この年の4月、妻の親友だった平松麻素子と帝国ホテルで死ぬ事を約束します。
しかし彼女の心変わりによって約束は果たされず、龍之介は数日後に菊池寛宛の遺書を書きました。

この頃から龍之介は聖書に接近し始め、「西方の人」を書いていきます。

そして昭和2年7月24日未明、龍之介は致死量のヴェロナールおよびジャールを服用し自殺します。
枕元には「旧新約聖書」が開かれたままでした。

また夫人や子どもたち、友人に宛てた手紙も残されており、その遺書の一つと自殺の事実が新聞にも公開されると世間を大きく騒がせました。
その遺書にあった「唯ぼんやりとした不安」という言葉は当時の人々に強い影響を与えました。

芥川龍之介のおすすめ作品とあらすじ

この章では芥川龍之介の主な有名作品とあらすじを一覧でまとめてご紹介します。

藪の中


【内容あらすじ】
わたしが搦め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人でございます――。馬の通う路から隔たった藪の中、胸もとを刺された男の死骸が見つかった。殺したのは誰なのか。

杜子春


【内容あらすじ】
金持ちの息子、杜子春が財産を使い果たし途方に暮れていると、見かねた仙人に大金を授けられる。しかし、金の有無で態度を変える人間に嫌気がさし、仙人へ弟子入りを志願した。そんな彼に課された条件はたった一つ。「決して声を出さないこと」。虎や蛇、地獄での責め苦にも、決して口を開かない彼だったが…。

羅生門


【内容あらすじ】
うち続く災害に荒廃した平安京では、羅生門に近寄るものもいなくなっていた。その楼上で、生活のすべを失い行き場をなくした下人は、死人の髪の毛を抜く老婆に出くわす。その姿に自分の生き延びる道を見つける…。

作品年表

西暦 作品名
1914 老年、バルタザアル、「ケルトの薄明」より、春の心臓、クラリモンド
1915 羅生門
1916 鼻、芋粥、手巾、煙草と悪魔
1917 さまよえる猶太人、戯作三昧、運、道祖問答、偸盗
1918 蜘蛛の糸、地獄変、邪宗門、奉教人の死、枯野抄、るしへる
1919 犬と笛、きりしとほろ上人伝、魔術、蜜柑
1920 舞踏会、秋、南京の基督、杜子春、アグニの神
1921
1922 藪の中、神神の微笑、将軍、報恩記、三つの宝、トロツコ、魚河岸、おぎん、仙人、六の宮の姫君、侏儒の言葉
1923 漱石山房の冬、猿蟹合戦、雛、おしの、保吉の手帳から、白、あばばばば
1924 一塊の土、桃太郎
1925 大導寺信輔の半生
1926 点鬼簿
1927 玄鶴山房、河童、誘惑、蜃気楼、浅草公園、文芸的な、余りに文芸的な、歯車、或阿呆の一生、西方の人、続西方の人

まとめ

いかがでしたでしょうか。
今回は芥川龍之介の生涯と作品についてご紹介しました。

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