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宮沢賢治の生涯と作品|独創的な詩人

原稿用紙の画像|四季の美
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「銀河鉄道の夜」など、数々の名作文学を残した宮沢賢治。
「雨ニモマケズ」といった詩や児童文学の創作にも力を入れていました。

今回はそんな宮沢賢治の生涯と作品についてご紹介します。

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宮沢賢治の生涯

宮沢賢治の誕生

宮沢賢治は明治29年8月27日、現在の宮城県花巻市に生まれました。(戸籍上は8月1日生まれになっている)
質・古着商を営む22歳の父政次郎と19歳の母イチの長男で、賢治の後に妹トシ、次妹シゲ、弟清六、末妹クニが生まれています。

明治36年に花巻町立花巻川口尋常高等小学校に入学。
3年生の時の担任、八木英三先生はよく教室で童話を読み聞かせてくれ、後年賢治は自身の童話創作にも影響したと感謝しています。

また、鉱物や昆虫採集、標本づくりなどに興味を持ち始めたのもこの頃でした。

小学校卒業後は県立盛岡中学校に入学。
寄宿舎での生活が始まると、この頃から徐々に短歌作りを始め、友人あての手紙などにもよく書いていました。

入院と初恋

盛岡中学校を88人中60番目の成績で卒業すると、病院で鼻炎の手術を受けた後に発熱が続き、入院することに。
ここで出会った看護婦への初恋、そして失恋は「大正三年四月」という歌群にも描かれています。

家業に対する嫌悪感や体調不良、失恋などで失意にあった賢治でしたが、島地大等編「漢話対照 妙法蓮華経」と出会い感銘を受けます。
宮沢家は代々浄土真宗を信仰しており、賢治にも宗教的素養が幼い頃からあったのです。

そして盛岡高等農林学校を受験、農学科第2部へ入学します。
賢治の指導教授となった関豊太郎は火山灰土壌研究で農学博士号を取得した人物で、賢治に目をかけ将来は助教授に推すことも準備する程でした。

童話の創作

寄宿舎に入った賢治は休日になると山野へ泊りがけで出掛けたり、友人と仏教の講習会に参加するなどしていました。
短歌製作も毎日のように行っており、校友会会報へ掲載したり、創刊した同人誌「アザリア」にも発表しています。

この「アザリア」には後の童話「マグノリアの木」の先駆稿ともいえる無題の小品文も掲載しており、この頃から童話の製作も始めていきました。

得業証書を貰った後も関教授の勧めで地質土壌肥料研究の為に研究生として残った賢治でしたが、助膜炎を発症。
これが賢治を苦しめる”結核”の始まりで、友人にも「自分のいのちもあと十五年もあるまい」と語っています。

法華経

研修生を修了後、助教授の誘いを断った賢治は、大正9年に国柱会へ入会します。
法華経や日蓮の遺文の輪読を試みたり、町内を暗題して歩く実修行に励むようになりました。

入信勧誘も友人は勿論家族にも行われ、改宗を迫る賢治と父との対立が起こりました。
周囲が心配する程熱心に布教活動に励んでいた賢治。
”法華文学ノ創作”を志して童話製作により熱心に打ち込んでいきます。

妹トシを失う

8月、妹のトシが病気との知らせを受けた賢治は急いで花巻へ帰ります。
そのまま家にとどまった賢治は現在の花巻農業高校の教諭となりました。
この農学校勤務時代に詩集「春と修羅」や「小岩井農場」などの作品をスケッチしていきます。

妹のトシの病状が悪化し、ついに亡くなってしまった悲しみは賢治に衝撃を与えました。
この日の日付をもつ「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の3篇の後はしばらく創作活動からも離れています。

作家として

大正12年、童話原稿を携えて上京し、弟に東京社へ原稿を持ち込ませますが失敗に終わります。
しかしその後岩手毎日新聞に童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」、詩「外輪山」を発表。
更に「シグナルとシグナレス」を連載していきます。

大正13年には「春と修羅」一千部を自費出版で刊行
これを辻潤や佐藤惣之助が絶賛します。

その後童話を類集した「注文の多い料理店」を刊行しますが、反響はありませんでした。

羅須地人時代と晩年

大正15年に教師を辞め、下根子の別宅で一人静かな生活を送り始めます。
音楽を楽しんだり、農作物を育てたりしていた賢治は近くの農家へ稲作指導を行ったり、子どもたちに自作童話の読み聞かせも行っていました。
羅須地人協会もこの頃立ち上げています。

しかし昭和2年2月に賢治を紹介する新聞記事が出ると<青年三十余名と共に羅須地人会を組織し>という一文が治安当局の目にとまったこともあり警察の取り調べを受けます。
その為羅須地人協会の以後の活動は表立たないように行われました。

昭和3年から高熱や急性肺炎などで体調を崩し始めますが、昭和6年に入った頃には

「どうやらもと通りのからだとなりました。四月からまた飛び出すつもりです」

と友人に送っており、健康が回復したかに見えました。
そして東北砕石工場技師嘱託として広告文作りや炭酸石灰の調査改良など、精力的に仕事に励んでいきます。

そうした活動の傍ら、「児童文学」に童話「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。
しかし出張の途中、ついに高熱で倒れてしまいます。

父の手配で上野から寝台で帰郷した賢治。
病に伏せる生活となってしまいました。

病床でも詩や童話の推鼓を続けていった賢治でしたが、昭和8年9月21日に37歳の若さでこの世を去りました。

宮沢賢治のおすすめ作品とあらすじ

この章では宮沢賢治の主な有名作品とあらすじを一覧でまとめてご紹介します。

銀河鉄道の夜


【内容あらすじ】
―永久の未完成これ完成である―。
自らの言葉を体現するかのように、賢治の死の直前まで変化発展しつづけた、最大にして最高の傑作。

注文の多い料理店


【内容あらすじ】
これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません――生前唯一出版された童話集。

風の又三郎


【内容あらすじ】
「やっぱりあいづ又三郎だぞ」谷川の岸の小学校に風のように現われ去っていった転校生に対する、子供たちの親しみと恐れのいりまじった気持を生き生きと描いた作品。

まとめ

いかがでしたでしょうか。
今回は宮沢賢治の生涯と作品についてご紹介しました。

その他の記事は下記の関連記事をご覧下さい。

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