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林芙美子の生涯と作品年表|放浪の作家

原稿用紙の画像|四季の美
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「放浪記」など、数々の名作を残した林芙美子。
貧しい女性に焦点をあて、芸術として昇華してきました。

今回はそんな林芙美子の生涯と作品についてご紹介します。

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林芙美子の生涯

誕生

林芙美子は明治36年12月31日、鹿児島県に生まれました。
しかしこれは出生届上のもので、実際の誕生日と出生地には様々な説があります。

雑貨屋の長男である父宮田麻太郎と、薬屋の長女である母キクの子として生まれた芙美子。
誕生日も詳細がわからないのは、父に認知されずに私生児となる様ないざこざがあり、誕生から出生届を出すまでに間が空いた事も関係していました。
キクが父方の母に拒否されたという説もあります。

それでも父は「軍人屋」というテキ屋の店を開いて成功し、芙美子も恵まれた幼少期を過ごしていました。
しかし芙美子が6歳の時、父が芸者の堺ハマに馴染み家に入れた事がきっかけで、キクと軍人屋の番頭沢井喜三郎と共に芙美子を連れて家出してしまいます。

不安定な子ども時代

ここからは沢井と母キクとの生活が始まり、長崎・佐世保・下関と渡り歩きます。
しかし大正3年、芙美子が10歳の時に沢井が開いていた古着屋が破産。
芙美子は鹿児島にいるキクの妹、鶴のもとへ送られました。

その鶴は芙美子は母のフユに預けますが、私生児だった事もあり愛する事はありませんでした。
女中代わりにこきを使い、編入した小学校にもあまり通っていなかったといわれています。

大正5年5月には母キクと沢井のもとへ戻り、尾道での生活が始まりました。
木賃宿を転々とする行商生活も安定し始め、ここで編入した小学校では先生にも恵まれます。

文学の道へ

芙美子より4つ年上の小林正雄指導が芙美子の文学的才能に目をつけ、女学校への進学に協力します。
そして大正7年4月に、芙美子のような階層では当時異例ともいえる尾道市立高等女学校に進学することになりました。

この学校でも教師たちに恵まれ、文学の道に目覚めていった芙美子は秋沼陽子というペンネームで地方新聞に詩や短歌を載せる文学少女にまで育っていきます。

しかし学校での成績は悪く、3年時には最下位にまでなる程でした。
この時芙美子は因島在住の岡野軍一と恋愛しています。

高等女学校を卒業すると、恋人になり明治大学専門部へ入学していた岡野を頼り、上京します。
やがて母キクと沢井も上京し、露天を出すのを芙美子も手伝います。

岡野の卒業を待っていた芙美子でしたが、岡野は卒業後に故郷へ帰って就職。
芙美子との結婚の約束は破られました。

放浪

その時(大正12年)の9月1日、関東大震災が発生。
当時別居していた両親の安否を確認すると、芙美子は尾道へ帰ります。
この尾道にいる時に小林正雄のすすめで”芙美子”というペンネームを決めたといわれています。

その後四国に渡り両親と合流した芙美子は、再び上京。
この頃から「放浪記」の元となる「歌日記」も書き始めています。

上京後は女中や毛糸店の売り子などさまざまな職を転々としました。
働きながらも詩や童話を創作し、出版社などに売り歩いています。

そして「芸術座」の俳優で詩人の田辺若男と同棲をはじめ、その縁で詩人たちとの交流も広げていきます。
田辺とはすぐに別れますが、その後は東洋大学生、次は詩人の野村吉哉と同棲していきました。

野村との同棲も、相手に愛人が出来たことから1年半程で解消します。

大正13年には友谷静栄と同人雑誌「二人」を出したり、「文芸戦線」「日本詩人」などに詩を載せるなどしていました。

大正15年には「風琴と魚の町」第一稿を書いていたころ、画学生の手塚緑敏と出会い、結婚します。(内縁関係)
この手塚は生涯芙美子を支え続け、作家としての成功を後押ししました。

流行作家へ

そして昭和3年、「女人芸術」に「放浪記」の連載が開始されます。
翌年には友人の寄附で詩集「蒼馬を見たり」を自費出版することに。
更に「放浪記」を読んだ記者から「改造」への随筆原稿依頼が来るなど、本格的に作家としての道を歩み始めます。

昭和5年7月に「放浪記」が改造社から出版されると、これが爆発的に売れて一気に流行作家となりました。
「続放浪記」や文庫と合わせて60万部も売れたといいます。
当時としては驚異的な数字でした。

本の印税で満州・中国へ旅行するなどしていた芙美子は、朝日新聞でも夕刊小説として「春浅譜」を連載開始します。
これは本人も認めるほど失敗に終わりますが、改造に発表した「風琴と魚の町」や「清貧の書」は高い評価を受けました。

大正6年には一人でパリ・ロンドンへ旅に出ます。
当時パリにいた画家の外山五郎を追いかけたとも言われています。
また、パリでは民間考古学者の森本六爾とも出会っています。

パリから帰国した芙美子は創作に打ち込み、随筆や紀行、短篇など様々な作品を書いていきました。
不遇の時代が長かったこともあり、原稿依頼は全て受けていたといいます。

昭和9年から朝日新聞夕刊に「泣虫小僧」を連載しはじめ、翌年には中央公論から「牡蠣」を発表します。
この「牡蠣」がリアリズム小説の傑作として高い評価を受け、これ以後の主軸が決定し、本人も”牡蠣時代”と呼ぶ程でした。

昭和18年には生後間もない男児をもらいうけ、泰(たい)と名付けて夫の緑敏と共に林の籍に入れています。

晩年

戦争を経て、出版事情も回復すると芙美子も再び創作に打ち込んでいきました。
昭和21年には「人間」創刊号に「吹雪」を、新潮に「雨」など多くの作品を発表していきます。
昭和23年に発表された「晩菊」では第3回女流文学者賞を受賞しました。

そして林芙美子の集大成ともいえる「浮雲」が連載開始。
連載中も数々の作品を書いていった芙美子でしたが、昭和24年頃から体調が悪化していきます。
それでも最期まで激務をこなし続け、昭和26年6月27日、心臓麻痺によって47歳の若さでこの世を去りました。

林芙美子のおすすめ作品とあらすじ

この章では林芙美子の主な有名作品とあらすじを一覧でまとめてご紹介します。

放浪記

【内容あらすじ】
貧困にあえぎながらも、向上心を失わず強く生きる一人の女性――日記風に書きとめた雑記帳をもとに構成した、著者の若き日の自伝。

晩菊

【内容あらすじ】
元赤坂の芸者だった老女が、昔の男の突然の再訪に心揺れ、幻滅する心理を描く。

浮雲

【内容あらすじ】
第二次大戦下、義弟との不倫な関係を逃れ仏印に渡ったゆき子は、農林研究所員富岡と出会う。一見冷酷な富岡は女を引きつける男だった。本国の戦況をよそに豊かな南国で共有した時間は、二人にとって生涯忘れえぬ蜜の味であった。そして終戦。焦土と化した東京の非情な現実に弄ばれ、ボロ布のように疲れ果てた男と女は、ついに雨の屋久島に行き着く。

作品年表

西暦 作品名
1930 蒼馬を見たり、放浪記、続放浪記
1931 彼女の履歴
1932
1933 清貧の書、面影
1934 散文家の日記
1935 泣虫小僧、牡蠣
1936 野麦の唄、文学的断章、愛情伝、愛情、稲妻
1937 女の日記、花の位置、紅葉の懺悔
1938 氷河、月夜、戦線
1939 北岸部隊、生活詩集、波濤、私の紀行、蜜蜂
1940 一人の生涯、青春、悪闘、女優記、七つの燈、魚介
1941 十年間、歴世、初旅、川歌
1942
1946 旅情の海、うき草、婦人の為の日記と随筆
1947 旅館のバイブル、一粒の葡萄、淪落、創作ノート、舞姫の記、雁、夢一夜、巴里の日記
1948 うず潮、暗い花
1949 放浪記第三部、女性神髄、晩菊、第二の結婚、牛肉
1950 松葉牡丹、槿花、夜猿、茶色の眼、新淀君、あばれ人妻
1951 冬の林檎、絵本猿飛佐助、浮雲

まとめ

いかがでしたでしょうか。
今回は林芙美子の生涯と作品についてご紹介しました。

その他の記事は下記の関連記事をご覧下さい。

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